リドリー・スコットがアツい.今作を観に行ったとき,上映前に同監督の『ハウス・オブ・グッチ』の予告編が流れていた.若いな(まあ,91歳のイーストウッドの新作も控えているが…).
自分が今作を楽しみにしていた理由は主に三つ.まず,今作はリドリー・スコットの44年ぶりの決闘映画だからである.彼のデビュー作『デュエリスト/決闘者』(1977)は主人公デュベールがハーヴェイ・カイテル演じるフェローという男に,半ば言いがかり的だが,十数年にわたり幾度も執拗に決闘を申し込まれていく話だ.
二つ目の理由はリドリー・スコットの人権感覚が優れていると感じるからである.特にそれを印象付けたのは『ゲティ家の身代金』における再撮影の件だ.メインの役柄を演じたケヴィン・スペイシーの性的暴行の問題で,公開一ヵ月前にしてスペイシーの場面を全てクリストファー・プラマーに置き換えたのだ.そして映画は無事に公開されただけではなく,その評価も上々,プラマーはアカデミー賞にノミネートされた.ここでの再撮影におけるスコットの仕事の速さが超人的なのは言うまでもないが,問題発覚から再撮影を決断するまでのスピーディーさにも惚れた.この人はこのような問題に対してちゃんと問題意識を持っていると感じた.
三つ目の理由はリドリー・スコットの作家性が好きだからである.ここでいう彼の作家性とは「我々は気付かないうちにシステムに囚われており,話の通じない相手に出会いったとき突然それが実体を伴って迫ってくる」,また,彼の「無神論的世界」である.例えば『デュエリスト/決闘者』ではデュベールはフェローに言いがかりをつけられ,決闘をするはめになる.フェローは話が通じない男で,ひたすら彼との決闘に拘る.デュベールは馬鹿げていると分かりながらも不可抗力的にその申し立てに応じていく.この映画では数年間で二人が幾度か出会いそのたびに決闘をする様が描かれるのだが,そこでは毎度の二人の出会いが偶然であること,そしてデュベールが闘わなければならない状況にいることが強調される.初めてフェローがデュベールに決闘を申し込んだ場面で,フェローは「これは名誉のためだ」と言う.そしてデュベール自身の闘う動機も「名誉」になっていく.元々,「名誉のための決闘」がある当時のフランス(というシステム)に生きており,フェローという話の通じない存在に運悪く出会ってしまったために,このシステムが実体として現れた.他にも『エイリアン』はどうだろうか.主人公たちは偶々知的生命体からの信号を受け取り,不可抗力的にその調査をしなくてはいけない状況に陥る。そして「エイリアン」という話の通じない相手に遭遇し戦いに巻き込まれていく.
リドリーは『プロメテウス』や『エイリアン: コヴェナント』でさらにその話を深めている.そもそも人間もエイリアンも「エンジニア」という宇宙人に造られたというのだ.初めから我々はエンジニアが造ったシステムの一員であり,人間とエイリアンはお互いに出会う運命だったとさえ思えてくる.エンジニアは創造主(神)のようであり一見すると崇高な存在に思えるが,実は彼ら(神)はそんなに大層な存在ではないことが次第に分かってくる.この顛末はいかにも無神論者であるリドリー・スコットらしいものに感じる.
余談だが,最近のリドリーはこのような独自の神話を創ろうとしているのではないかと感じてしまう.彼が製作(第一話と第二話は監督も)したHBOのドラマ『レイズド・バイ・ウルブス/神なき惑星』は無神論者とミトラ教徒の戦いや未開の惑星で人類を育てようとするアンドロイドを描いた物語で,『プロメテウス』からの系譜を強く感じさせられる.
また,この文脈で外せないのが『悪の法則』である.『悪の法則』は『ノーカントリー』の原作者であるコーマック・マッカーシーが脚本を書いた作品(だから共通項も多い).マイケル・ファスベンダー演じる弁護士が裏社会に片足を突っ込んだために取り返しのつかないことになっていくという話で,リドリー作品の不条理性を凝縮したような映画になっている.
他にも『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』の脚本を手掛けたマット・デイモン&ベン・アフレックのコンビが本作の脚本も担当しているなどもあるが,まあそんなわけで自分は『最後の決闘裁判』が気になっていた.
実際に観てみて,とてもリドリー・スコットらしく,クオリティも高い作品だと思った.ビジュアルももちろん素晴らしいし,話運びにはリドリーの熟練した手腕を感じた.本作は同じ出来事をジャン・ド・カルージュ,ジャック・ル・グリ,マルグリットの3者の立場から描いているというのが特徴的.この構成を冗長だという意見もチラホラあり,まあ分からなくもないが本作では客観的には同じ出来事でも主観によりそれが歪められてしまうということが肝であり,視点による微妙な差異が重要になってくる.また,ジャン・ド・カルージュとジャック・ル・グリのパート(男性視点)を男性であるマット・デイモン&ベン・アフレックが,マルグリットのパート(女性視点)を女性であるニコール・ホロフセナーがそれぞれ脚本を分担しているからか,1章・2章と3章では語り口の雰囲気が変わっていた.
同時に,リドリー・スコットらしい冷めた目線もあり,それによってこの事件が現在まで地続きであると痛感させられた.
ラストの決闘シーン.この決闘では「勝利した者 =「真実」を知る神に選ばれた者」であり,勝った者が「真実」となるらしい.つまるところ,本当のことなどどうでもいいのだ.マルグリットは二人の決闘をただ傍観することしか出来ない.つまり,彼女がいくら真実を訴えようがそれを「真実」と決定づけるのは神でしかない.もっと言えば,神に選ばれるのは男性であり,結局マルグリットは不可抗力的に男性社会に自らの運命を任せることしか出来ない.また,そもそもジャン・ド・カルージュが命を懸けるのもマルグリットのためというより自らの名誉のためという側面が強い.真の被害者であるはずのマルグリットの意思は蔑ろにされる.流石のリドリー,決闘シーンは手に汗握るものになっているが,やはり同時に冷めた目線がある.マルグリットの意思が介在しない,血生臭い殺し合いとして描かれる二人の闘いからはカタルシスが排除されており,やはりそこに神の存在は感じられない.
敗れたジャック・ル・グリは身ぐるみ剥がされて無惨にも晒される.ここは『悪の法則』での弱肉強食的世界観を思い出した.決闘を制したジャン・ド・カルージュは名誉を取り戻し,皆に祝福される.どちらが勝とうが気にしない,この決闘を娯楽として消費する人々だ.あまりに虚しい.群衆の声援を誇らしげに受けるジャン・ド・カルージュとは対照的なマルグリットの空虚を見つめるような表情が印象的だった.
本作でも先に述べたような「我々は気付かないうちにシステムに囚われており,突然それが実体を伴って迫ってくる」というリドリー・スコット的世界が存在する.神に運命を委ねる男性優位社会がそのシステムとなる.この社会に生まれたマルグリットはジャック・ル・グリに出会うことで,この不条理な世界を身をもって体感することになる.劇中,決闘のルール(ジャン・ド・カルージュが敗れれば,自分の訴えは虚偽になり処刑される)を知らされたマルグリットは「もしその真実を知らなかったら私も他の女性と同じようにしていた」と言う(台詞違っていたらすみません).マルグリット以外の女性は例え性被害に遭っても自分や家族の名誉のために沈黙を貫くという.実際,過去に性被害に遭ってたと言う彼女の義母は「真実は重要ではない」とマルグリットを窘める.真実が意味をなさないシステム.多くの女性はこの不条理さを受け入れるしかなかったのだろうか?
リドリー・スコットの映画には強い女性が登場することが多々あるが,本作のマルグリット(演じるジョディ・カマーの凛とした存在感が素晴らしい)もそうだろう.沈黙を破り,歪んだ真実を覆すその姿は力強く感じた(三幕構成が巧く効いている).しかし,それでも彼女はこの不条理なシステムからは逃れられなかった.
映画で描かれるように,このシステムにおいて女性はあまりに微力.しかし,マルグリットはこれを打破することは出来ずとも,ラストカットでの彼女の視線は未来に向いていた.では,現在はこのようなシステムは解体されたのか…?と思わず考えてしまった.