otaku8’s diary

映画のこととか

『THE BATMANーザ・バットマン』レビュー(ネタバレあり)

 

 

 

 

この記事では『ザ・バットマン』感想をネタバレありで書いています。ネタバレなしの感想は↓

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以下、ネタバレ感想

既に本作を鑑賞した人たちと話して気が付いたこともあり、それを踏まえて書いていきます。記憶違いなどあるかもしれませんが、ご容赦ください。

見たかったバットマン映画

 バットマン映画はどれも志向が違っていて、どれが良かったか?と単純比較は難しい。敢えて言えば、本作は歴代実写化の中で最もコミックの印象に最も近い「らしいバットマン映画」であり、本作が基にしたコミック『バットマン:イヤーワン』『バットマン:ロングハロウィーン』にあったノワール感がよく出ていた。勿論、そこには70年代ノワール映画の影響が感じられる。また,他のどのバットマン映画とも似ておらず差別化出来ている作品であると思う。

恐怖の象徴

 まず冒頭が素晴らしかった。シンプルな赤と黒のタイトルがとてもカッコ良い。"THE BATMAN"というタイトルからは「これがバットマン映画の決定版だ」と言わんばかりの本気度が伝わってくる。本作で3回ほど登場する"Ave Maria"が流れながらスコープ越しに市長宅を覗く場面。そこからの市長殺害のホラー的演出。セリフが殆どないこの一連のシークエンスはリーヴス監督の『猿の惑星:新世紀』の冒頭を思わせる。このような演出は何気に今までのバットマン映画では少なかったと思う。闇に隠れて市長殺害のチャンスを狙っているリドラーは中々闇から出られず、慎重にその機会を伺う。映画全体を考えると、ここは最終的に光の下に出てきて人々を救うバットマンとの対比にもなっているようにも感じる(リドラーは基本的に陰で犯行を行う)。ちなみに本作ではバットマン/リドラーを分ける「線引き」が一つのテーマになっている。市長をめった打ちにして殺害するリドラーの妙な素人感も良くて、ジム・キャリー版とは違うゾディアック的な彼の格好も含めて、リアルな殺人鬼という雰囲気がある。

 ハロウィンのゴッサム。ブルースは獲物を狙うハンターのように犯罪者を探している。当然、彼一人では全ての犯罪者を叩きのめすことは不可能。そこで彼が用いるのが「恐怖」だ。バットシグナルなどを使い、人々に「バットマン」のイメージを植え付けていく。ここの演出も非常に良かった。犯罪者が空に浮かぶバットシグナルを見つけ、目線をもとに戻すと彼らは闇の中に「バットマン」を感じるようになる。彼らは怯え、逃げていく。バットマンとは個人を超えた「象徴」だということが冒頭から示される。『ダークナイト』の冒頭でも似たような場面はあったものの、今回はバットマンの恐怖の象徴的側面がより一層強調される。また、これを補強するのがマイケル・ジアッチーノの印象的なライトモチーフだ。ネタバレなしの記事にも書いたように、本作ではマイケル・ジアッチーノが非常に良い仕事をしている。主要キャラクターのテーマはどれも印象的で、バットマンのテーマは『帝国のマーチ』のように口ずさみやすい。この「口ずさみやすい」というのはヒーロー映画のライトモチーフとして割と重要だと思っている。その意味では全アメコミヒーロー映画のテーマ曲の中でも、このバットマンのモチーフはかなり良いのでは。


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バットマンに取りつかれた男

 バットケイヴへと戻ったブルースはマスクを脱ぐが、そこには目周りの黒いペイントが残っている。これはリアリティの確保以上に、ネタバレなしの感想で言ったようにブルース自身もまた「バットマン」に囚われていることを表しているように思う。事実、彼は滅多に表に顔を出さず、屋敷に閉じこもっている。アルフレッドに「両親が遺した遺産を継がなくてよいのか?」と問われたブルースは「ちゃんとやっているよ」と答える。ここで彼が言う「やっている」はバットマンとしての活動のことだ。パティンソンのブルースは歴代ブルースのようにプレイボーイ的な活動はしない。狂気のバットマンと言われるマイケル・キートン版でさえ表向きの姿は持っていたのにだ。パティンソン版ブルースはバットマンの活動にしか興味がない。この執着心に蝕まれたブルースは生気を失った亡霊のように思える。ここには明らかにカート・コバーン(ニルヴァーナ)や彼をモデルにした『ラスト・デイズ』の影響が見える。屋敷に閉じこもるブルースは「バットマン」に幽閉されているとも言えるだろう。このバットマン/ブルース・ウェイン像は『バットマン:エゴ』から来ているように思う。『エゴ』ではある事件をきっかけにブルースの人格が「復讐に燃えるバットマン」と「理性的なブルース・ウェイン」に分裂し、その両者の対話からバットマンとは何か?を掘り下げていた。前者は言い換えれば彼の自警活動における自己満足的な部分、つまり「バットマンのエゴ」でもある。『ザ・バットマン』でのブルースはここで言う「復讐に燃えるバットマン」に支配されていて、自身のエゴの為に活動している状態と言える。この場面では、二年間の活動記録をノートに書き綴っているのも駆け出し感があって良かった。

 本作のバットマンのテーマ曲は二つのパートに分かれている。恐らく、メロディアスな前半はブルースのエモーショナルな部分を、後半は怒りに燃えるバットマンを表しているのではないかと思う。先程から言っているようなバットマン/ブルース・ウェインの二面性が音楽にも反映されている。前半パートに関しては劇中で少なくとも三回流れる。市長の葬儀の場面、病院でのブルースとアルフレッドの場面、あとはラストで、これらはどれもブルースのエモーションに関わる場面だ。

「嘘」

 市長の葬儀の場面とアルフレッドとの場面は、共にブルースと彼の父親の話になっている。本作ではウェイン夫妻殺害の瞬間は登場しないが、その出来事はブルースにとって非常に重要なものとして言及される。彼は市長の葬儀にてファルコーネと対面し、「父は母の秘密を守るためにファルコーネに、その秘密を暴露しようとした記者を殺させた」という事実を知る。実はブルースの父トーマスは過去に瀕死のファルコーネの命を救っていて、ファルコーネとの繋がりがあったのだ。そしてファルコーネから、彼のライバルでありその記者と繋がりのあったマローニが両親の死に関与したのではないかと聞かされる。両親の殺害シーンが描かれないとはいえ、孤児となった市長の息子に自分を重ね合わせているだろうブルースの描写から分かるように彼はあの路地裏での事件に囚われている。ブルースはこの真実を知りながら自分に「嘘」をついていたアルフレッドを問い詰める。『ロング・ハロウィーン』でも一部描かれたこの件はゴッサムという街に飲まれた人々の善悪の曖昧さみたいなものを提示する。実際にはトーマスはファルコーネに相談はしたものの、殺人を依頼していたわけではなく、このことに関してずっと後悔していたらしい。そして真実を言おうとしたトーマスをファルコーネが口止めした可能性があるとアルフレッドは言う。ここで印象的なのは、結局真実は分からないということである。両親を殺したのはファルコーネかもしれないしマローニかもしれない、または不幸にもただのチンピラに殺されたのかもしれない。分かるのは過去に囚われていては前に進めないこと、そしてアルフレッドがブルースのことを大切に想っているということである。今この瞬間、ブルースにはアルフレッドという彼にとって大切な人がいる。アルフレッドはブルースの「父親」になり切れないが彼を愛する者として、かつウェイン家につかえる執事としてこの「嘘」をついていた。ここのアンディ・サーキスの演技が良くて、二人の関係性を示す非常にエモーショナルな場面になっている。

 リドラーの台詞「お前が正義なら、嘘をつくな」の通り、リドラーはゴッサムに蔓延する「嘘」を暴こうとしていた。政治家たち上流階級は孤児や貧困層を救うと言いながら、実際は自分のことしか考えていない。警察や司法は正義の看板を掲げながら、マフィアと癒着し腐敗している。リドラーやセリーナはその「嘘」に対抗し、暴力的な手段を持って復讐しようとし、ペンギンはその中で虎視眈々と王座を狙っている。ゴッサム市警の中で珍しくまともな警察官であるジェームズ・ゴードンは正しい行いをしようとするが、その為に彼はバットマンという法的には存在し得ない虚構を頼りにする。そしてブルースはマスクの中でこそ本来の自分を表現することが出来る点で、彼自身もバットマンという虚構の中で生きている。本作は「嘘」が蔓延する街ゴッサムにおける人々の生き方、そこで彼らが見出す正義を描いているように思う。

『ジョーカー』へのアンサー

 本作は『ジョーカー』と同じ世界の物語ではなく、また、『ジョーカー』を意識して作られたわけではないと明言されている。なので宣伝文句「『ジョーカー』の衝撃は序章に過ぎなかった」は正直褒められないが、『ザ・バットマン』には図らずも『ジョーカー』へのアンサー的な側面がある。ラストの山場でリドラー軍団の一人をバットマンが怒りに任せて殴り続ける。男の覆面が取れ、彼は「復讐だ」と言う。見間違いかもしれないが、この男は恐らく市長の葬式でブルースに話しかけていた下流階級の人物だろう。余談だが、最初この人が冒頭の駅の場面で痛ぶられていた男だと勘違いしていた(彼はバットマンの「復讐だ」を聞いているだろうし)。これはこれで面白そうではある。男もブルースやリドラー同様に社会に対する復讐心を持っていたのか。彼が「復讐だ」と言った瞬間、ブルースは自分が超えようとしていた一線を再認識し動揺する。「一線をこえるかどうか」というテーマはリーヴス監督の『猿の惑星』にも共通する。『猿の惑星』ではある倫理的一線が提示されていた.その一線を越え,人間同然の存在に堕ちていく主人公シーザーが救世主として再び民衆(猿)を導いていく話だった.

 ブルースは彼の「エゴ」を原動力としてバットマンの活動を行ってきたが、それだけではゴッサムを救うことができないと悟る。ここで思い出すのが『ジョーカー』だ。『ジョーカー』では社会から見放された男アーサーがジョーカーになっていく物語だった。アーサーは地下鉄にて上流階級である酔っ払いエリート集団を殺し、貧困層の象徴的な存在になっていく。ここでの「貧困層から富裕層への復讐」という構図は『ザ・バットマン』に通じ、『ジョーカー』にてアーサーに影響された群衆はリドラー軍団に重なる。

 留置所の場面でリドラーはバットマンとリドラーは似た者同士だということを強調する。実際、二人とも孤児であり、恐怖を武器にして復讐心を原動力としている。また、自分の活動を日記に記録しているところも同じである。二人の違いは何か?バットマンは犯罪者に恐怖を与えるのみならず、人々を救う存在でもあるのだ。最後の戦いの場で、バットマンはエンブレムとして胸に収納された、彼の象徴的な武器であるバットラングを使って電線を切断して人々を救う。ここに「救う者としてのバットマン」が見える。光の使い方が印象的な、集会場に水が押し寄せて人々が身動き出来なくなる場面。ここの洪水はコミック『バットマン:ゼロイヤー』がインスピレーション元か。バットマンは発煙筒を使って火を灯し、暗がりから光の方へと彼らを導いていく。シーザーとは違ってブルースは一線を超えなかった。そして最終的に彼は自身のエゴから抜け出したが、一方でリドラーはそのエゴに囚われたままの存在だとも言える。バットマンが「恐怖の象徴」から「希望の象徴」へと変わっていくという意味では『ダークナイト・ライジング』と似ているし、光の演出は同じくマット・リーヴス監督の『猿の惑星:新世紀』の終わりを思い出した。あの映画では「猿と人間の分断」が光と影を使って象徴的に描かれていた。『ザ・バットマン』でのこのバットマン像も多分、『エゴ』からインスパイアされたものだろう。その中で「バットマンは犯罪者にとっては恐怖の象徴だが、同時に市民にとっては希望の象徴である」とされていた。ここに社会の不寛容によって一人の男が悪の道を歩み始めた『ジョーカー』へのアンサーを読むことが出来る。

別れ

 本作は歴代映画の中でも特にしっとりとした、エモーショナルな終わり方を迎える。自分はこの映画も例によって「バットマンのテーマ」をバックに荘厳に終わると思っていたので少し驚いた。バットマンとキャットウーマンがバイクで走っていく場面。着飾った演出をせず、カメラはただ二人を追う。バックで流れる音楽はあのテーマのメロディアスな前半部である。つまり、ここに映っているのは自身のエゴに囚われたバットマンではない。同じ道を走る二人の姿からはどこか似た者同士の二人の精神的な繋がりが見えてくる。二人ともゴッサムに飲まれた存在ではあるが、ゴッサムを離れて新たな人生を歩もうとするセリーナとは違ってブルースはこの街に残る選択をする。彼は「バットマン」という呪縛からは逃れられない。彼にはゴッサムを救うという使命がある。ブルースのバイクは彼女と逆方向に走っていき、バイクが段々と加速していくところで映画が終わる。彼の戦いは続いていくのだ。

音楽

 既に述べたようにジアッチーノは非常にいい仕事をしている。印象的かつバットマン/ブルース・ウェインの二面性を反映したテーマ、恐ろしいリドラーのテーマ、情緒的なキャットウーマンのテーマ。他に自分が特に好きな曲が”Highway to the Anger Zone”という、ペンギンとのカーチェイスシーンで流れる音楽。これまでのバットマン映画のチェイスシーンの音楽とは違い、モンスター映画のような曲調だ。この曲は例えば、同じジアッチーノの『ジュラシック・ワールド』の”Raptor Your Heart Out”に近い。


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 既存曲ではニルヴァーナの"Something in the Way"と"Ave Maria"が本作の主題歌と言えるだろう。前者は監督が脚本を執筆しながら聴いていた曲らしい。通りでカート・コバーンを意識したブルース・ウェインになっているわけだ。予告だけでなく、ちゃんと劇中でも流れていて良かった。この曲は冒頭と終盤で二回流れる。一回目はまだまだ「エゴ」に囚われていたブルースがバットケイヴに戻る場面。二回目は「エゴ」から脱した彼が水害に見舞われた人々を救う場面。この曲では「命の線引き」について歌われていて、この「線引き」をバットマンに当てはめると、先ほど書いたような彼の二面性、またバットマンとリドラーを分けているものの線引きを表しているのではないかと思う。後者"Ave Maria"は劇中で四回登場する。冒頭の市長殺害シーンと彼の葬式のシーン、孤児院のシーン、最後はポール・ダノのアカペラ。どれもリドラーが絡む場面だ。また、リドラーのテーマ曲自身も"Ave Maria"をアレンジしたものに聴こえる。復讐者の道しかなかったリドラーの叶わぬ「救い」を表しているのだろうか。

不殺主義

 本作の良かったところの一つはバットマンが不殺主義をほぼ徹底していることだ(一部怪しいシーンはあるが)。勿論、不殺主義が絶対必要というわけではなく、例えばティム・バートンのバットマンには不殺主義が存在しない。ただ、自分は不殺を貫くバットマンが好きだ。理由は主に二つある。一つ目の理由は単純に勿体ないからだ。バットマンのヴィランはみんな魅力的であり、たった一作のみの登場で終わらせるのは惜しい。また、シリーズが続くならヴィランが集合した絵も見てみたい。二つ目の理由はバットマンとヴィランたちの共依存関係を見たいからだ。バットマンは当然ゴッサムから犯罪を減らそうと日々戦っているが、そもそもバットマンがいるからこそヴィランたちが動きだすのでは?また、実はバットマンも彼らの存在を求めているのでは?という問題が存在する。つまりお互いがお互いを必要としているのだ。このあたりは『ダークナイト』や『レゴバットマン ザ・ムービー』で描かれている。『ザ・バットマン』では不殺主義を徹底することで、バットマンをバットマンたらしめる越えてはいけない一線を明確にしている。彼は銃を使って敵を殺そうとするセリーナを止め、「一線を超えるな」と言う。それは「怒りに身を任せてエゴに飲み込まれるな」というブルース自身への戒めにも捉えられる。

リアリティ

 リアリティバランスもとても良かった。まずゴッサムシティについてだが、バートン版とノーラン版の中間のような感じで、リアルでありつつ、しっかり架空都市ゴッサムになっていた(実写だと『ゴッサム』に近いかもしれない』)。今回のバットマンがモモンガスーツとパラシュートを使って滑空するところにもリアリティへの拘りが見える。ノーランのバットマンはリアルだと言われてきたが、本作の前ではそれも怯む(そもそもノーラン版は別に「リアル」ではないが)。ガジェットだとコンタクトレンズ式の記録装置が良かった。本作の中で特にハイテクなツールだが、「世界最高の探偵」としてのバットマンに説得力を与えていた。

 気になるのは次作以降である。本作ではファルコーネという「ゴッサムマフィア物語」のドンが死ぬ。つまり、70年代ノワール的な作風には本作で区切りがついたとも読み取れる。リアリティラインをガラッと変えそうなMr. フリーズを登場させたいという話もあり、今後の世界観の描写にも期待。

三時間の長さ

 本作の上映時間は三時間であり長い。自分は体感二時間くらいでちょうど良かったが、そこを批判する人の意見は分かる。確かに物語を伝える為ならもっとコンパクトに出来るし、普通はそうするだろう。また、三時間かけた割にはバットマンとセリーナの関係を深掘り出来ていない。ただ、この長尺には効果があると思っていて、それが「コミック感」の再現である。本作はあまりメリハリが無いが、それにより「読み物感」が与えられ、観客はグラフィックノベルのページをめくっていく感覚に陥っていく。本作の冗長性も「らしいバットマン映画」の創造に寄与しているのだ。

不満点

 今回は「世界最高の探偵」としてのバットマンにフォーカスが当たるということで、勝手に期待が大きくなっていた。確かにバットマンは歴代実写映画の中では一番探偵しているし、そこはとても良かったのだが…少し物足りなく感じてしまったのも事実だ。個人的にはもっと長くても良かった。これは三時間という長さを感じず楽しめたことの裏返しでもあるが。予告編で流れるリドラーがダイナーで逮捕される場面やバットマンがリドラーと面会する場面、鑑賞前は「ここから事態が二転三転するんだろう」と予想していたが、結局ポール・ダノのリドラーは最後まで捕まったままで、彼に唆された人々が「リドラー」となり事件を起こすという山場は残されていたが、それでも物語は予想より呆気なく終わってしまった。本作は『チャイナタウン』のようなミステリー調ではあるが、所謂「犯人探し」の映画ではない。初めから犯人はリドラーだと分かっているし、ポール・ダノがその役をやることも既に公表されている。その意味で予告編は少し見せすぎだったし、こちらも過度に期待してしまっていたかもしれない。また、翻弄される、捜査する側の物語としては『ゾディアック』に近い。本作の魅力はそうした展開の意外性よりも、より「らしいバットマン」描写や捜査の過程で描かれるブルースの心の旅、ゴッサムという街に飲み込まれた人々の模様だと思う。

 また、バットマンとキャットウーマンのロマンスはコミック等の描写から理解は出来るが、この映画だけを考えれば少々急にも感じる。ここ最近はキャラクター同士の安易なロマンスは大作映画では避けられる傾向にあるように思う(『パシフィック・リム』等)が、本作のそういった展開は70年代ノワールを基にしている影響だろうか。

 バリー・コーガンはゴッサム市警のスタンリー・メルケルを演じると以前から言われていて、Wikipediaにも現時点ではそう書いてあるのだが、実際はアーカムの囚人役だった(そういう情報も出回ってはいたが)。役名は"Unseen Arkham prisoner"で薄笑いをする様子から何となくジョーカー?と思ったが、いずれにしても個人的にはこのパートは少々蛇足に感じてしまった。

まとめ

 コミックを読んでいるかのような、今まで見たかったバットマン物語を観ることが出来た。総じてレベルの高い製作陣がバットマンへの深い理解を持って作った「らしいバットマン映画」。これをスクリーンで観れたことがまず嬉しい。引っかかる点はあったが、十分に虜にされてしまったので、この製作陣とキャストによる続編も観たいと強く思う。

 

 

↓他のバットマン映画に対するコメント

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