otaku8’s diary

映画のこととか

『ジュラシック・パーク』について話したくなったのですこしだけ(自然 vs 人工)

*『ジュラシック・パーク 』『ジュラシック・ワールド』のネタバレあり

 

 『ジュラシック・ワールド』のラストバトルに関して、あれは「自然の摂理 vs 人工物」だという意見をよく見る。つまり、実際に存在するティラノサウルスやヴェロキラプトル(=自然物)と、ハイブリッド恐竜であるインドミナス・レックス(=人工物)の対立であるというわけだ。でも、仮に製作者の意図がそうであっても、この説は引っ掛かる。このシリーズの恐竜は「遺伝子操作によって、人間が望む姿を具現化した恐竜」だからだ。『ジュラシック・パーク』では恐竜再生において、DNAの欠損部位の補完のためにカエルのDNAを使っている。その影響でメスしかいないはずの恐竜たちは性転換をし、どんどん繁殖していったという設定だ。つまり、最初から本来の姿ではない。遺伝子操作の産物であり、人々がイメージする「恐竜」として生み出されたのだ。人々の望む姿で作られたという点でレクシィもラプトルもインドミナス・レックスと何ら変わらない。

 しかも、この映画『ジュラシック・パーク』シリーズというコンテンツ自体が、人々の望む「恐竜」を魅せるシリーズである。例えば、映画に出てくるヴェロキラプトルはデイノニクスをモデルにしており、スピルバーグが「ヴェロキラプトル」という名前を気に入って採用された。当時は両者同一説があったなどの経緯はあるにせよ、実際には小型なヴェロキラプトルのリアルを描くより、あの大きさの方が映画として映える。

 恐竜と言えば、羽毛恐竜の存在など、新しい恐竜の姿についての話題がたびたび出る。このシリーズも最新の学説を取り入れていて、例えば羽毛恐竜がぼちぼち登場したりもしたが、やはりスクリーンの中の恐竜の殆どは「我々がイメージする恐竜」である。そして、先ほど書いた、「パークの恐竜は人々がイメージする「恐竜」として生み出された人工物である」という設定が実際の恐竜の姿とのズレを埋め、スクリーンの中の恐竜に説得力を与えている。さらに言えば、多くの観客はこの「スクリーンの中の恐竜」こそが実際の恐竜(=自然物)だと認識するだろう。『ジュラシック・ワールド』の最終決戦が「自然物 vs 人工物」という構図に見えてしまうのもまあ分かる。

 『ジュラシック・ワールド』でヘンリー・ウーは、「モンスターを作れとは言っていない」というマスラニに対して「モンスターというのは相対的な言葉であって、カナリアにとってネコはモンスター。我々はネコと呼ぶのに慣れているだけだ」と返す。彼は見慣れたレクシィやブルーを当然のように「自然の摂理」だと捉えてしまう観客の思考をも指摘しているのだ。

 自然と人工の対比が象徴的に描かれているのは『ジュラシック・パーク』のラストだ。最後、ラプトルを倒して咆哮を上げるレクシィと、彼女をそのままに島を去る人間が対比される。人間自らが作り出した彼女(=人工物)を制御できないのだ。人間社会へ帰る主人公たちが見るのは現生の鳥、つまり実際に今生きている「恐竜」(=自然物)だ。人間が生命をコントロールすることなどできないというマイケル・クライトンの主張が端的に示される、素晴らしい終わり方である。

 


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