面白かった。前作は肉親から捨てられ孤独だったビリー少年が血の繋がらない「家族」の一員になる話だった。今回のビリーはその家族との繋がりを大切にするあまり、彼らを束縛してしまっている。シャザムは「中身は子供」のヒーローであるが、ビリーはもうすぐ18歳で大人に近づいていて、制度上は「家族」からひとり立ちしなければいけない可能性がある。一方、ビリー自身は理想の世界に生きている。だから、彼はこのグループホームこそが自分の居場所だと思っている。また、ビリーはまだ理想のヒーローになることが出来ていない。ヒーロー活動はするものの、市民からは「フィラデルフィアの恥」と言われる始末であり、実はヒーロー名もまだ決まっていない。理想の世界に生きようとするも上手くいかないビリーは、理想と現実の狭間に立たされる。今回はその二項対立から脱却し、シャザムというヒーローに成長する物語である。
ということを踏まえて、今までのDC映画の美点が受け継がれていたことが一番嬉しい。最近のDC映画では「ヒーローとは何か」という問いを立て、それは精神性に由来すると語ってきた。ビリーは自分が「シャザム」に相応しくないんじゃないかと悩むが、魔術師は「お前は能力を独り占めすることなく仲間に与えた」と言う。そういう利他的な精神がビリーのヒーローとしての本質だと気付かされる。また、本作ではビリーの家族は度々能力を失ってしまうが、それでも人々を守る姿が描かれる。ユニコーンに乗って戦ったり、フレディは自分を犠牲にしてアンに寄り添う。つまり、力が重要なわけではなく、他者を思いやり行動することが大切なのだ。この利他主義自体が理想主義だともいえるが、ヒーロー映画それ自体が魔法(理想)を見せるものでもあるので、それで良い。ちなみに、利他主義を象徴する「人命救助」はヒーロー映画に欲しい場面だが、本作にもちゃんとあって嬉しかった。
ビリーは現実を受け入れて「全か無か」から成長する。同時に理想は持ち続け、仲間を信じ、遂にスーパーヒーロー、シャザムになる。現実の世界からは逃れられないが、それでも理想は良いものだという着地はヒーロー映画としてはお手本のような感じだ。まあ、これが完璧に上手くいっているかと言われたら微妙だが。
ホラー畑のサンドバーグ監督らしい要素といえば冒頭の「カオスの感染」の場面や後半のクリーチャーたちが良かった。前作もそうだったが、こういうスパイスは嬉しい。ヘレン・ミレン、ルーシー・リュー、レイチェル・ゼグラーも個人的には中々良かったと思う。ただ、ヴィラン三姉妹の関係(血縁?の家族であり、神)はビリー達(血の繋がりのない家族であり、「偽り」の神)と対比されるものなので、もう少し深掘り演出があっても良かったと思う。
大きな不満点は二つ。まず、テーマ曲が前作から変わっていることだ。ヒーロー映画のテーマ曲は基本的にキャッチーで口ずさみやすいものであるべきだと思っている。その曲を聞いただけでキャラクターが浮かんでくるのが理想的。最近だと『ザ・バットマン』が素晴らしかった。前作のテーマ曲はクリストファー・リーヴやアニメイテッド版の『スーパーマン』、80年代ハリウッド映画を彷彿とさせるキャッチーなもので、陽性ヒーロー映画のモチーフとして非常に良かった。今回は作曲家がベンジャミン・ウォルフィッシュからクリストフ・ベックに変わっている。今回のテーマが特別悪いわけではないが、前作と比べるとキャッチーさは低い。また、その曲を聞いただけでキャラクターが浮かんでくるのが理想だと書いたが、そのためにはシリーズを通して一貫したテーマ曲を持っていて欲しい。例えば、本作のワンダーウーマン登場シーン(これはこれで言いたいことがあるが)では、ちゃんとワンダーウーマンのモチーフが流れる。仮に目を閉じていたとしても、その音さえ聞いていれば彼女の登場が分かるはずである。また、最近のDCEU(DCU)ではやたらとリーヴ版『スーパーマン』やバートン版『バットマン』のモチーフが引用される。この引用自体の是非はあるが、やはりヒーローには「このテーマが流れたらあのヒーローが登場する!」と直感的に感じさせるくらいのテーマを持っておいて欲しい。
もう一つの不満点は、ワンダーウーマンの登場である。これは本作だけではなく他のDCU作品にも共通する問題なのだが、最後の最後になってジャスティス・リーグのメンバーがちょろっと登場することが多い。毎回事件が解決してからやって来るので、「今まで何やっていたのか問題」が発生し、逆説的にリーグメンバーのヒーロー性に疑問符が付いてしまう。加えて製作のゴタゴタもあり、サプライズの為に存在する虚構感がかなり強い。つまり、「ジャスティス(仮)・リーグ」に見えてしまうのだ。これは本来なら正真正銘のヒーローであるジャスティス・リーグのメンバーにとってもあまり良くない影響なんじゃないかと思う。