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ローズマリー・ハリス映画について

 ローズマリー・ハリス(Rosemary Harris)は稀有な俳優である。1927年9月19日生まれハリスは、現在96歳であり(2024年7月現在)、9月には97歳を迎える、世界最高齢の現役俳優のひとりと言っても過言ではない。また、ハリスは舞台、映画、テレビドラマのいずれにおいても長年活躍しており、高く評価されてきた。特に、サム・ライミの『スパイダーマン』シリーズ(2002-2007)で演じたメイ・パーカーは人々に強いインパクトを残したはずである。しかしながら、特に日本においては、舞台や未公開の映画・ドラマへの出演が多いハリス作品の知名度はあまり高くない印象を受ける。そこで、本記事の目的を次のようにした。

・ローズマリー・ハリスという人物への知名度向上

・自分自身の振り返り用まとめ

・ローズマリー・ハリス出演作を通じて表象されるものへの考察

キャリア

ローズマリー・ハリスという人

 まず、キャリア全体について概説する。尚、大ヒットしたマーベル映画の主要俳優にも拘わらず、ローズマリー・ハリスについての詳細な日本語記事は残念ながら殆ど見当たらない状況である。

 ハリスは1927年9月19日、イギリスのサフォーク州アシュビーで、スタッフォード・バークレー・ハリスとエニッド・モード・フランシスの間に生まれた。幼少期は空軍勤務の父親の影響でハリス一家はインドで過ごしたが、第二次世界大戦の余波でイギリスに戻ることになる。この頃ー彼女が14歳のときー母が病に倒れて亡くなった1, 2。母を敬愛していたハリスにとって、これは大きな喪失であっただろう。

 ハリスの両親は芸術肌だったことがうかがえる。父親はピアノを弾き、母親は演劇のを嗜んでいた。そのなかで、ハリスは俳優になることを夢見て育った3。一方で、戦後イギリスにおいて「女性らしい」と見なされた看護や教師といった分野4についてもハリスは視野に入れており、実際に一時期は看護師を目指していた。しかしながら、役者への夢を諦めていなかった彼女は、町のレパートリー・シアターなどの小さな劇団で働きつつ、技術を学ぶために王立演劇アカデミー(RADA)に応募し、通うこととなった5。この頃に様々な劇場で多様な役を演じたという経験が、ハリスの役者人生に大いに貢献したことは容易く想像できる。その後、ハリスは演出家のモス・ハートに目をつけられたことでニューヨークへ渡り、1952年に『エデンの気候』でブロードウェイデビューを果たした。それ以降、彼女はイギリスとアメリカで多くの舞台に立ち続けた。ピーター・オトゥールと共演した1963年の『ハムレット』や1966年にトニー賞を受賞した『冬のライオン』など、その活躍は輝かしいものである。ハリスは、自身がイギリスを離れてニューヨークへ渡った理由について次のように触れている。

「クラシック作品が今よりも多く上演されるようになっていると思います。20年前には、クラシック作品を上演することはリスクが高いとされていましたが、(中略)以前は、まさに今言っている理由でイギリスを去ったと思っていました。デズデモーナ(『オセロ』の登場人物)を演じたときには、過去のデズデモーナたちの重圧を感じ、自分にはチャンスがないと感じてイギリスを離れました。しかし今は、少し考えが変わりました。」6

 1959年には演出家で俳優のエリス・ラブと結婚した。エリスは、1960年代にA.P.A.(プロデューサー・アーティスツ協会)を創設した、アメリカの演劇界で最も多才な俳優兼演出家の一人である。ハリスはその劇団で重要な役を演じるなど、彼の演出した作品で頻繁に主演しており、彼らの結婚が1967年に解消された後もクリエイティブな面での二人の関係は続いていた7。特に、彼は後述する『The Royal Family』の1975年から1976年のブロードウェイ公演および1977年のテレビ映画版に演出・出演として関わっている。

 エリスとの離婚後、ハリスは1967年に「アパラチア文学の父」と呼ばれる作家のジョン・イーリーと結婚した。彼は戦後、ノースカロライナ大学で映画等の学士号と演劇芸術の修士号を取得している。また、同大学で教鞭も執っており、ノースカロライナ州知事の顧問としてノースカロライナ大学芸術学部や貧困撲滅プログラム(ノースカロライナ基金)の開発等の設立にも貢献した8このように、イーリーは同大学との関わりや、教育や社会問題に対する意識が強い人物である。ハリスも彼との関わりのなかで、そのような活動に身を投じることもあった。例えば、1960年代後半に、アン・フォーサイスが設立したスタファー財団を引き継いだ。この財団は、アフリカ系アメリカ人の学生がエリート南部予備寄宿学校に通うための全額奨学金を提供する最初の財団である。ハリスはイーリーと共に、黒人学生候補にインタビューを行った9。また、彼女自も俳優として教育熱心であり、各地で演技指導を行い次世代教育に力を入れている。更に、ジョン・イーリーとの間に生まれたジェニファー・イーリーは、ハリスと同じ俳優の道を歩み、ドラマシリーズ『カモミール・ローン』(1992)や後述する『太陽の雫』(1999)では共演を果たした。

 RADA出身のハリスは、「舞台にいるときが一番心地よく、映画を撮るときは魚が陸に上がったような気持ちになる」と語っている。

「 イギリス人は、おそらく30年前まで、映画を一種の貧しい親戚のように考えていました。演劇、特に古典演劇が重要でした。シェイクスピアやショー、シェリダンなど、あらゆる作品を知っていなければなりませんでした。私はRADAで1年間過ごしました。演劇は私の遺伝子に刻み込まれています。私はいつも、舞台の上で小さなフラップが生え、小さなエラが開くと言っています。舞台の上では自分の得意分野に没頭し、陸に上がって撮影しているときには外に出てきた魚のようです。舞台の上ほど落ち着くことはありません。」10

舞台での実績は輝かしく、トニー賞に9回ノミネートされ、『冬のライオン』で受賞を果たしている。また、2019年には、演劇界における生涯功績によって特別トニー賞を授与された。

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映画俳優ローズマリー・ハリス

 そのようなハリスを知っている観客としては、例えば映画『ハムレット』(1996)にて劇中劇を演じた彼女を嬉しく思っただろう。彼女の長編映画デビュー作品は、エリザベス・テイラーと共演した『騎士ブランメル』(1954)である。本作の中でハリスは、ジョージ4世(ピーター・ユスティノフ)の愛人であるマリア・フィッツハーバートを演じている。出演時間が長いわけではないが、後の作品群でのハリスのパフォーマンスの面影が感じられ、既に十分な貫禄を見せつけ、大きな存在感を放っている。

『騎士ブランメル』(1954)

 その後、舞台やドラマで活動する一方、商業映画にも継続的に出演している。2019年に61年ぶりに放映された11テレビ映画版『嵐が丘』(1958)ではリチャード・バートン演じるヒースクリフと恋に落ちるキャサリンを魅力的に演じた。シェイクスピア俳優であり、『嵐が丘』の映画として最も有名な1939年版でヒースクリフを演じたという点でハリスとの接点が多いローレンス・オリヴィエと共演した『ブラジルから来た少年』(1978)では、恍惚とした表情で夫の死を喜ぶ女性を演じた。

 『デランシー・ストリート/恋人たちの街角』(1988)では、特別出演という形で登場した(エンドクレジットでは初めに名前が挙げられている)。大きなハットを被って一人語りをする彼女は、僅かな登場時間ながら強いインパクトを残した。

 映画俳優としての重要作品の一つが『愛しすぎて/詩人の妻』(1994)であろう。本作ではウィレム・デフォーがT. S. エリオットを、その妻ヴィヴィアンをミランダ・リチャードソンが演じており、ハリスはヴィヴィアンを案じる母親を演じている。ハリスは悲しみや尊厳を抑制の効いた演技で魅せ、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。映画俳優ローズマリー・ハリスが演じる役柄には、この頃からある種の定型が形作られていったように見える。それは、「喪失者、導師」という役割である。これについては後ほど触れる。その後、ヒュー・ハドソン監督作『My Life So Far』(1999)やサボー・イシュトヴァーン監督作『太陽の雫』(1999)、そしてサム・ライミ監督作『ギフト』(2000)と名監督の作品に立て続けに出演した。そして同じくライミが手掛けた『スパイダーマン』シリーズ(2002~2007)へと出演し、演劇に疎い大衆への知名度も大きく向上したと思われる。

『ブラジルから来た少年』(1978)

 『スパイダーマン』シリーズ以後にはシドニー・ルメットの遺作『その土曜日、7時58分』(2007)やマイケル・ケイン主演の『Is Anybody There?』(2008)、『ブラック&ホワイト』(2012)などに出演しており、オスカー・ワイルドをテーマにした『Oscar Wilde About America』(2025)の公開も控えている。

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【ローズマリー・ハリスの劇映画出演作一覧】

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【参考文献】

1. It's Far From `All Over' for Rosemary Harris | www.totaltheater.com

2. Interview with Actor Rosemary Harris

3. ROSEMARY HARRIS IS PURE PRESENCE - The New York Times

4. McCarthy, H. (2017). Women, Marriage and Paid Work in Post-war Britain. https://doi.org/10.17863/CAM.38282

5. NC’s Treasure – Rosemary Harris | By Keith Martin - Issuu

6. Rosemary Harris Carries It Off With Repertory of Stage and Life - The New York Times

7. Ellis Rabb, Actor and Director, Is Dead at 67 - The New York Times

8. John Ehle, Who Rooted His Novels in Appalachia, Is Dead at 92 - The New York Times

9. ‘The Way to Survive It Was to Make A’s’ - The New York Times

10. Rosemary Harris On 'The Holocaust', Spider-Man & Tom Stoppard

11. Found! A Lost TV Version of “Wuthering Heights” | The New Yorker

いずれも2024年8月30日閲覧

マジカル・グランマへの葛藤

 ローズマリー・ハリスの半生を概観すると、1990年代半ばくらいから映画でハリスが演じる役には定型のようなものが出来つつあったことに先ほど触れた。ハリスが与えられたキャラクター=「喪失者、導師」は我々に感銘を与え、我々は彼女に対して「マジカル・グランマ」と言うべき役割を重ねうると考える。

スター・ローズマリー・ハリス~「結婚はキャリアじゃない、単なる出来事だ!」~
(『The Royal Family』のネタバレ含む)

 ジェームズ・モナコ著『映画の教科書』では、「スター」と「俳優」は明確に区別されており、前者は「役を通じて自己のペルソナを演じている者」と定義されている。この定義に依れば、例えばトム・クルーズはスターだと言えるだろう。特に直近の 『トップガン マーヴェリック』や『ミッション:インポッシブル 』シリーズでクルーズ自身が"演じ"られているのを見ればそれは明らかである。では、ローズマリー・ハリスの場合はどうか?これを考える上では、ジョージ・S・カウフマンとエドナ・ファーバーによる戯曲『The Royal Family』(1927)を参考にしたい。 『The Royal Family』は、演劇家系であるキャベンディッシュ一族について、個性豊かな彼らが自分の人生を模索していく様を描いていた喜悲劇である。1975-1976年に復活公演されたとき、ハリスは長女ジュリー・キャベンディッシュを演じた。また、その34年後である2009年には一家の長ファニー・キャベンディッシュを演じた。


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 このように、同劇はハリスのキャリアにとって重要な立ち位置を示しており、映画俳優ローズマリー・ハリスを考える上では、テレビ映画版 『The Royal Family』(1977)に注目したい。本作は、アメリカの公共放送サービス(PBS)で放送されているテレビ番組シリーズである『Great Performances』のなかで放映された作品であり、演出しているのは、あのエリス・ラブである。ラブはその他にもファニーの息子であるトニー役として出演もしている。本作の素晴らしさはエヴァ・ル・ガリエンヌやハリス、サム・レヴィーンなどの舞台役者のパフォーマンスにほぼ集約されているが、映像作品だからこそという瞬間も散りばめられている。全体的にコメディチックに描かれたドタバタ劇であるが、不意に表出するエモーションをカメラが適切に捉えており、非常に感動させられるのだ。  

 映画は家族の長であり大女優であるファニー(エヴァ・ル・ガリエンヌ)の写真のモンタージュから始まる。ここで映されるのは、1999年に91歳で他界した、アメリカ演劇界の多大な貢献者であるガリエンヌ自身の写真である。次にカメラはハリスが演じるジュリーへと焦点を映し、同様に彼女のモンタージュが始まる。ここでもやはり映されるのは、『冬のライオン』のエレノアなどの、ローズマリー・ハリス自身である。つまり、本作はそこに演じられるキャラクターと演者が重ね合わせられていることが分かる。  

 開始から約13分頃、カメラが俳優ジュリー・キャンべディッシュの置き写真にゆっくりとズームする。次の瞬間、彼女が颯爽と現れ、クイックズームで彼女を捉える。そして颯爽と階段を下っていく。ハリスが優雅で活力溢れんばかりに体現するジュリーは、まさにスターそのものである。一方で彼女は結婚への願望も持ち合わせており、その狭間で揺れていることが物語が進むにつれて明らかになる。そういうジュリーの役柄は、ハリス自身とも重なる。ハリスがジョン・イーリーと結婚したとき、彼女は人生に別の幸せを見出し、1年半ほど俳優業を引退したようだ1。結的に二人はお互いの仕事を続けながら生活していく道を選んだが、それでも彼女は役者業以上に娘を育てることに対してやりがいを感じていたと語った。ジュリーの娘グウェン(メアリー・レイン)が結婚のために役者としての道をすべて閉ざそうとした場面について、ハリスは次のように回顧している。

「娘のグウェンが株式仲買人と結婚したいと言い出し、私は『キャリアを続けなさい。あなたは才能があるのだから。いつかみんなが私を見て、”彼女が母親なんだ”と言われる日が来るでしょう。その日が来たら私は…幸せです」と述べています。そして今、自分にも同じことが起こり始めていると感じており、みんなが娘のジェニファーについて話したがると語っています。「“娘さんは空き時間ありますか?”と聞かれるのです」2

ジェニファー・イーリーが14歳の頃ーちょうどハリスが母親を亡くした歳と同じー「演劇をやりたい」と言う彼女に対してハリスが「どうして?」と聞くと、イーリーは「あなた(ハリス)が楽しそうだから」と答えたそうだ。ハリスにとって娘の幸せが彼女の幸せであり、それは俳優としての幸せと相反しないどころか、むしろそこには強い結びつきがあるのだろう。

 映画『The Royal Family』では、ハリス=ジュリーの内面を捉えた素晴らしい瞬間が多くあるが、特に白眉なのはラストであろう。本作において一家の様々な葛藤が描かれるが、最終的には彼らが共に舞台に立つことになる。グウェンの子供であるオーブリー・キャベンディッシュ・スチュワートという新しい命も誕生した。つまり、彼らは一家として、演劇を取るか、はたまた他の幸せを取るかという二項対立を乗り越えたように見える(「「結婚はキャリアじゃない、単なる出来事だ!」というファニーの言葉が沁みる)。盛り上がる彼らとは離れて、肖像画に敬礼をし、舞台に向けて一人台本を読み込むファニー。冒頭でジュリーがスター然として階段を駆け降りてきたのと重なるように、スター・ファニー・キャベンディッシュは階段を降りていく...。この最終盤は、バトンが次世代へ受け継がれていくことを描いた名シーンである。そして、その事実を受け止めたジュリーの顔=ハリスの名演をクロースアップで捉えたラストはあまりにも美しい。

 彼女の半生を踏まえると、スター・ローズマリー・ハリスが2009年にファニー・キャベンディッシュとして再び『The Royal Family』に戻ったことは、とても自然に感じる。彼女はジュリー/ファニー・キャベンディッシュという役を通じて(もちろん、その他の役にも当てはまるが)、自己のペルソナを体現しているとも言えるからだ。

【参考文献】

1. ROSEMARY HARRIS IS PURE PRESENCE - The New York Times

2. Rosemary Harris: Actress for All Seasons - TheaterMania.com 2024年9月1日閲覧


混沌へのまなざし~「それでも人生は美しい」~(『太陽の雫』のネタバレ含む)

 ローズマリー・ハリスは実際に第二次世界大戦の時代を生きた人間であるが、彼女は映像作品の中においても、たびたび戦時を生きる女性を演じている。代表的なのは『ホロコースト/戦争と家族』(1978)である。同作はNBCで放映された、全5章からなるテレビシリーズであり、「ホロコースト」という事象を大衆に広く知らしめたと同時に、その表象不可能性について賛否を呼んだ作品である1。他にも、ナチスドイツ占領下のオランダの村で、その村を象徴する時計台の騎馬像を巡る物語が展開される『時計台の騎馬像』(1996)や、 オーストリア=ハンガリー二重君主国時代からハンガリー動乱までを描いた『太陽の雫』(1999)がある。ここでは『太陽の雫』を取り上げ、そのまなざしを受け止めたい。

 ハンガリーを代表する映画人サボー・イシュトヴァーンの『太陽の雫』(1999)で、ハリスはまさに時代の変遷へまなざしを向けるような役を演じた(イシュトヴァーンとは出演時間は短いものの、『華麗なる恋の舞台で』で再タッグを組んでいる)。『太陽の雫』はオーストリア=ハンガリー帝国からハンガリー動乱までを、ゾネンシュタイン・イグナツ(レイフ・ファインズ)から始まるユダヤ人家系の栄枯盛衰を描いた歴史映画である。ここでファインズは、イグナツ、アダム、イヴァンという三世代にわたる三人の人物を演じ分けている。イグナツは、従妹であるヴァレリー(ジェニファー・イーリー)と結婚する。この二人のロマンスと彼の法律家としての立場を巡る話が、三幕構成の第一幕で描かれる。ヴァレリーを演じたイーリーはローズマリー・ハリスの実の娘であり、ハリスは第二幕以降で、後年のヴァレリーを演じている。つまり、ファインズが一人で三世代を演じているのに対して、ハリスとイーリーは親子で二世代を演じているのだ。この配役は、本作にとって本質的に重要だと言える。

 本作は、時代に翻弄されるファインズが演じる三世代の男たちの視点からハンガリーという箱の中の「歴史」を浮かび上がらせ、その「歴史」へのヴァレリーのまなざしが軸になっていると言っても良い。

『太陽の雫』(1999)

 イグナツの父親エマニュエル・ゾネンシャイン(デビッド・デ・ケイザー)の、居酒屋を営む父親が爆発事故で亡くなり、酒の秘伝の調合法が書かれた「黒い本」が事故の跡地から見つかる。その後、エマニュエルがそのレシピを基に作り上げた酒は「サンシャイン」と名付けられた。この「黒い本」が、「ゾネンシャイン」を表すアイデンティティとして本作を象徴するアイテムとなる。

 イグナツとグスタフ(ジェームズ・フレイン)という二人の息子を抱えたエマニュエル夫妻は、エマニュエルの弟が他界したため、娘ヴァレリーを引き取ることになる。彼らが成長するとイグナツとヴァレリー(ジェニファー・イーリー)は愛情を育んでいくことになる。

 弟グスタフが政権に反発して革命を望むのに対して、イグナツは皇帝を称賛し、法律家としてのし上がっていく。また、イグナツは両親の反対を押し切ってヴァレリーと結婚する。また、ハンガリーで栄転するために名前をハンガリー風にすることを迫られたイグナツは、ゾネンシャインからショルシュという名前に変えることになる。そんななか、オーストリア皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が勃発する。

 以上が第一幕のあらすじである。第一幕では、ジェニファー・イーリーの存在感が際立っている。イグナツとグスタフという対極的な兄弟と保守的な家族に囲まれるなかで、ヴァレリーの強かさが強調されているのだ。ヴァレリー=ジェニファー・イーリーが見せる快活さや母性、深みは、ローズマリー・ハリスのそれと重なりはするものの、それ以上にイーリー独自の魅力に依るところが大きい。

 ヴァレリーが写真撮影を嗜んでいるということも興味深い。印象的なのは、彼女がイグナツの写真を撮るために、彼のポーズを規定していく場面だ。カメラは身体を制御する。そう考えれば、本質的にはヴァレリーがイグナツよりも優位に立っていることが示される。一方でその直後のシーンでは、彼女は撮られる側となる。ヴァレリーはゾネンシャイン家の中庭に咲く花々を撮ろうとする。自然に花が咲いたことは奇跡だと喜んだのだ。庭の真ん中に置かれた椅子が撮影の邪魔になるため彼女がどかしに行ったとき、彼女の足裏にトゲが刺さってしまう。トゲを抜こうと椅子に座った瞬間、グスタフがカメラのシャッターを切る。自然に咲いた花々とトゲを抜こうとするヴァレリーのポーズ。その偶然性がこの時代における美しい瞬間として切り取られるのだ。 

 ヴァレリーとイグナツの近親相姦的な恋愛はー後にレイフ・ファインズとローズマリー・ハリスの血縁関係で繋がれた存在として描かれることでその傾向が強まっているがーエディプス・コンプレックス的な雰囲気を全体に漂わせている。この点については、心理学者ダイアナ・ダイアモンドが次のように指摘している。

『サンシャイン』において、家族的および歴史的なトラウマとその精神への持続的な影響は、繰り返し登場するテーマです。エディプス・コンプレックスや兄弟間の愛着や競争といった普遍的な家族の力学の循環性、そして歴史の流れにおいて家族が進展するか、もしくは壊れていく様子が、世代が交替するごとに父が息子に、母が娘に変わる様子として映画的に描かれています。3

 ここに、レイフ・ファインズとローズマリー・ハリス/ジェニファー・イーリーの配役が効いていると言える。レイフ・ファインズが演じるゾネンシュタインの息子たちは、彼らが恋愛関係を結ぶことになる女性たちに対して母性を見出し、まさに「息子」的な立ち位置となる。そういう彼女らの代表がヴァレリーであると言えよう。

 第二幕ではイグナツの息子アダムの物語が主になる。学校でユダヤ人であるという理由から「お前が空気を汚したから謝れ」と脅される。彼の喉元には剣先が当てられていた。アダムはその抑圧に対抗するかのように自ら剣を握り、フェンシングに打ち込むようになる。この章におけるフェンシングのシーンは圧巻であり、特に、デカデカと掲げられたナチスの旗を背景にしたベルリンオリンピックでの一幕は、スポーツ映画的なスリルとその状況の異様さが入り混じる名場面である。アダムのモデルとなったのは、ハンガリーのオリンピック選手アッティラ・ペッチャウアーだとされる2。ペッチャウアーはアムステルダムとロサンゼルスで開催されたオリンピックでメダルを獲得したフェンシングのトップアスリートであるが、強制収容所に送られ、極寒のなかで裸にさせられた上に木に登らされ、そのまま凍死したと言われている。映画のアダムのエピソードは、ペッチャウアーの半生の多くが踏襲されている。

 第二幕以降では、ローズマリー・ハリスがヴァレリーを演じる。ハリスの登場シーンは多くはないものの、ナチス台頭からその終焉までが描かれる第二幕は彼女の視点で見れば、まさに『ホロコースト』を想起させる内容である。ユダヤ人に対する締め付けが厳しくなるなか、グスタフの妻グレタ・ソルス(レイチェル・ワイズ)は生き延びるために国を出るべきだと主張するが、一家の人々はそれを躊躇する。口論の最中、陶器が落ちて割れてしまう。ヴァレリーはその破片をかき集めて拾い上げ、自身の写真の前に置く。彼女が足裏のトゲを抜く瞬間の写真である。これは、「家族の崩壊」と「人生の美しさ」を同時に捉えた、とても象徴的な場面である。この後、ナチスによって一家は文字通り崩壊していく。

 第三幕。強制収容所にて父親の死の瞬間を目撃しながら何もできなかったイヴァンは、その反動から第二次世界大戦後に台頭したスターリンによる共産主義体制下でファシスト狩りに加わることになる。しかし、シオニズムと共産政権の対立により、イヴァンは国家転覆を企てているとされるユダヤ人を摘発するよう命令され、上司のアンドール・クノール(ウィリアム・ハート)を尋問しなければならなくなる。

「顔が代わるだけで、独裁政治は続いた」

これは第三幕で象徴的なセリフである。 イグナツ、アダム、イヴァンの主体性は、結局はそれが時代時代で”長いものに巻かれて”しまったのだ。そして、世界は根本的に変わらなかったことが分かる。そういった無力感がありながらも、ヴァレリーは「それでも人生は美しい」と言う。彼女にとっての「人生」とは「歴史」であり、「歴史」とは物体ではなく、情勢に翻弄されて失ってきた人々の人生であった。イヴァンとヴァレリーが「ゾネンシュタインの味」が記された「黒い本」を探している最中、ヴァレリーが倒れる。そして間もなくして彼女は他界する。その後、イヴァンは残された家財を処分して人生を立て直すことにするが、そのなかで彼の気づかぬうちに「黒い本」が捨てられてしまう。これは、彼女のまなざしが見つめていた歴史が一旦終わりを迎えたことを意味しているのではないか。そして、イグナツ、アダム、遂に「ゾネンシュタイン」を取り戻したイヴァンら、息子たちにとっての母の死は、イヴァンやその子孫たちがそのエディプス・コンプレックスを克服し、新たな歴史を迎えることを象徴するだろう。

【参考文献】

1. 加藤幸実「ホロコーストの「アメリカ化」という現象-博物館・大衆文化・教育に関して-」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 Vol.232』、53-94頁2013年2月。 NAID 120005311868

2. Attila Petschauer 2024年9月5日閲覧

3. Diamond, D. (2003). Sight and Sound in Szabo’s Sunshine: The cinematic representation of historical and familial trauma. In A. Sabbadini (Ed.), The couch and the silver screen: Psychoanalytic reflections on European cinema (pp. 100-116). Hove and New York: Brunner- Routledge.

喪失者として、師として~「ときには毅然として大事な物をあきらめることもある。夢でさえも」~(『スパイダーマン』シリーズのネタバレ含む)

 『スパイダーマン』シリーズでは、ハリスは『ギフト』(2000)から引き続きサム・ライミとタッグを組むことになった。ローズマリーハリス映画を観ていくと、1990年以降の彼女の役柄には共通点が見い出せる。それが顕著になるのがこのシリーズである。ハリスが演じるメイ・パーカーは、夫であるベン・パーカー(クリフ・ロバートソン)と共に孤児であるピーター・パーカー(トビー・マグワイア)を育て上げる。ベンの死後、メイはピーターの精神的な支えであり続けることになる。

メイ・パーカーから見る『スパイダーマン2』

 ハリスの存在感は『スパイダーマン2』(2004)において、より一層強調されており、メイ・パーカーこそが本作を紡いでいると言っても過言ではない。メイは主に4つのパートに登場し、それぞれが本作の白眉といえる名場面となっている。ここではその4つのパートを振り返りながら、メイ・パーカーを軸として本作を語っていく。

① 誕生日会

 前提として、前作でベンを亡くしたメイはピーターに対して気丈にふるまうものの、内心では失意の底にいることが推測される。それが分かるのは、ピーターの誕生日会の場面である。机に突っ伏してうたた寝するメイ。その手元には抵当権喪失の通知書が置かれている。ピーターがメイの手に触れると、彼女はそれをベンのものだと誤認する。彼女は気丈に振舞っているが、内心ではベンを失った喪失感を常に抱えているのだ。ピーターは銀行からの通知書に言及するが、彼女はその話題から避けようとする。そして、ピーターの手になけなしの20ドル札を握らせる。彼がそれを断ろうとすると、彼女は抑えていた感情を遂に吐露する。ハリスの名演が光る、非常に印象的な場面である。

② 銀行襲撃

 ドック・オク(アルフレッド・モリーナ)による銀行強盗の場面では、ハリスは自ら大がかりなスタントを行う。①で金銭的困窮が明かされたメイは、ピーターと共にローンを組むために銀行を訪れている。結果的に彼らがローンを諦めざるを得ないこの場面は、ややコメディチックなテイストでありながらも、メイの金銭的状況が明かされているために悲痛なものになっている。ここで注目すべきは、メイが銀行員(ジョエル・マクヘイル)の足元を机下で蹴る瞬間である。この②では、このようなハリスの身体動作が繰り返されることになる。次にメイは、銀行内部での戦いのなかで転がってきた硬貨をネコババしようとする銀行員の手をピシャリと叩く(これは前作でノーマン・オズボーン(ウィレム・デフォー)の手を叩くシーンにも通じる)。そして極めつけは、ドック・オクによってビル壁にさらわれた彼女が、ドック・オクの後頭部を傘で振りかぶって殴り、スパイダーマンを危機から救う瞬間である。このように、ハリスの手足を用いたアクションがシーケンスのリズムを紡いでいる。

 ②では、ハリス自身がスタントを行ったもう一つの重要なアクションが存在する。その場面では、落下するメイをスパイダーマンが救い、地上までスイングする。そして、地上に降り立った二人を人々が囲む。ここには、ヒーロー映画として古典的な運動とテクストが含まれている。それは、「浮遊した生命を救助し、その身体を着地させること」、そして「その瞬間を人々が目撃している」というものである。その最もアイコニックな例の一つが『スーパーマン』(1978)である。ヘリコプターから落下するロイス・レイン(マーゴット・キダー)をスーパーマン(クリストファー・リーヴ)が魔法のような力でその落下運動を妨げ、ビルの屋上に彼女を着地させるのである。そしてその行為は、人々のまなざしにさらされている。ロイスがその正体を尋ねると、スーパーマンは「友人だ」と答え、匿名性を保とうとするのである。そして、着地させた彼女の足元と対比するように再び浮遊していく。この構造は、『スーパーマン リターンズ』(2006)における飛行機救助シーンで、先ほどの匿名性の担保についてのやり取りに捻りを加えることでスーパーマン(ブランドン・ラウス)とロイス(ケイト・ボスワース)の関係性を強調する形で再現されていた。

『スーパーマン』(1978)での人命救助シーン

 この構造は『スパイダーマン』でも用いられている。パレードをグリーン・ゴブリン(ウィレム・デフォー)が襲撃し、建物から落下するメリージェーン・ワトソン(キルスティン・ダンスト)を救う場面である。しかしながら、『スパイダーマン2』においては、更に進んだ形で展開される。二人が地上に降り立ってからの会話に注目する。

メイ     「ありがとう。あなたを誤解していた」

スパイダーマン「僕らの勝ちだ」

メイ     「僕ら?」

(再び飛び立つスパイダーマンと、メイの周りに集まる人々)

ここで、「僕ら」のやりとりは、『スーパーマン リターンズ』の例と同様に、匿名性の担保に対する捻りだといえる。彼がスパイダーマン=ピーターであることを口走りそうになることで、逆説的に彼女がそれに気が付いていないことを強調するのである。また、彼女がスパイダーマンの正体に気付いていないという前提の下で、「ありがとう。あなたを誤解していた」という台詞は、本作において重要な意味を持っている。この瞬間、スパイダーマンに対する市井の人々の認識が明らかになり、後の名場面である④や電車のシーンに繋がっていくのである。

③ 告白

 メイはピーターと共にベンの墓参りをする。前作のラストでスパイダーマンとして生きる決意を固めたピーターが、そのことを秘匿したままメリージェーンを背にして立ち去ったシーンと対比されるように、ベンの墓から立ち去るメイを背にしてピーターは立ち止まる。ピーターには、メイに秘匿した真実があるのだ。アメリカ国旗が掲げられた家に帰ると、彼はベンの死の責任が自分にあることを告白する。ここで、ハリスは非常に険しい表情を見せる。怒り、落胆、衝撃など、さまざまな感情が交じり合った瞬間の表情と所作で表現される、まさに名演である。ピーターがメイの手を握ろうとするが、彼女はその手を引く。これは、①において、メイが自分の手に重ねられたピーターの手をベンのものだと誤認する瞬間に呼応している。ベンの喪失を引きずる彼女にとって、ピーターの告白がいかにショックだったかを示す瞬間である。

④ 引っ越し

 本作におけるハリス最後の登場場面では、2つの主軸—ベンの喪失とヒーローの喪失—についての総括が行われる。抵当権を失ったメイは、近所に住むヘンリー・ジャクソン(ジェイソン・フィオーレ・オーティズ)と共に引っ越し作業を進めている。まず、③の件について謝ろうとするピーターに対して、メイは「忘れなさい」と手を空中で振り払い、彼を抱擁する。彼が正直に告白してくれたことに感謝し、彼への愛情を再度強調する。ここは、本作におけるハリスの身体アクションの総括ともいえる瞬間である。②で些か暴力的だった手のアクションから一転し、また、③で拒絶したピーターとの接触を受け入れたのだ。

 次に、スパイダーマンがいなくなった世界を悲しむヘンリーに同調するように、メイがヒーローの必要性を説く場面が続く。それは②で彼女自身がスパイダーマンに救われた経験に基づいたものである。本作の中でその経験は一般化され、電車の場面において今度は市井の人々がスパイダーマンを助けることになるのだ。また、メイの導きを受けたピーターはドック・オクをアームから解放し、彼の中に善性を呼び戻す。米国におけるヒーローという存在の象徴性が前作以上に強調された『スパイダーマン2』では、メイ・パーカーはその導き手としての「マリアンヌ(≒自由の女神)」を表象する。それはちょうど、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)でメイの言葉を受け止めたピーターが、自由の女神像の上でヴィラン達を「解放」したのと重ねられよう。そして、メイが説く「ときには毅然として大事な物をあきらめることもある。夢でさえも」という言葉は、幸せの拠り所に悩むジュリー・キャベンディッシュにも届きそうである。

 さらに、①で「ベンを殺した相手に出会ったら、自分がどうなるか分からない」と言っていた彼女自身も、本作の過程を経て、『スパイダーマン3』(2007)においてピーターに「復讐は毒であること」と「自分を許すこと」を説くまでに至るのだ。

マジカル・グランマへの葛藤

 2000年あたりから、彼女はー祖母という立場が多いがーメイ・パーカーのような立ち位置ー喪失者、導師ーをハリスはたびたび演じている。例えば、『シャンプー台の向こうに』(2001)では、ハリスは盲目のデイジーを演じている。理髪店に勤めるシェリー(ナターシャ・リチャードソン)に髪を切ってもらっているデイジーは、盲目ながらシェリーが泣いていることに気が付く。シェリーはガンを患っていたのだ。デイジーは自身が夫を失った経験から、彼女に死への向き合い方をアドバイスし、勇気づける。『ブラック&ホワイト』(2008)では、フランクリン・フォスター(クリス・パイン)の祖母を演じている。ローレン・スコット(リース・ウィザースプーン)が彼女の家を訪問した際に、フランクリンの両親が他界したことや彼が子供時代にスーパーマンになりきっていたことを彼女に話す(ここは『スパイダーマン』でピーターに「あなたはスーパーマンじゃない」と言うシーンのオマージュか?)。そして、子供時代を恥じるフランクリンに対し、「人生に失敗はない」と告げるのだ。他にも、先ほどの『太陽の雫』やヒュー・ハドソン監督作『My Life So Far』(1999)等でも愛する者の喪失を経験し、後生の導き手となる役割を演じている。それは、幾度もの家族の喪失を経験したハリス自身が、娘であるジェニファー・イーリーや次世代の俳優を育て上げてきた姿に重なる。

 中期~後期ローズマリー・ハリス映画に親しみのある観客は、自ずとハリスにそのような「マジカル・グランマ」的役柄を期待してしまうだろう。一方で、その期待はハリスをスター的ペルソナに束縛していくことになる。ローズマリー・ハリス映画を前にしたとき、常にそのことについて考えざるを得ないのだ。