コラリー・ファルジャ『The Substance』をMUBIで観た。あまり情報を入れずに臨んだということもあり、予想以上にジャンル映画的だったため驚いた。ジャンル映画としてはかなり面白かったし、ファルジャの手腕も確かなものではあったが、一方で気になる点もあった。
コラリー・ファルジャは台詞等による余計な説明を廃して、映像で情報を繋いでいくのが巧い。その映像の連鎖が徐々にエクストリームになっていき(流血量も増えていき)、高揚を生み出していく。風刺を効かせた理知的な作劇であると同時に、フィクショナルな要素を大胆に入れており、ジャンル映画的に仕上げていく監督ともいえる。『リベンジ』では「誘惑するような仕草をした女が悪い論」を振りかざして主人公の女性を加害した男たちに対する、彼女の復讐が描かれる。この映画は、まさに丁寧かつ大胆な映画だといえよう。例えば、ガラス破片で切り裂かれた足裏でアクセルを踏み、その度に血が吐出するという丁寧かつ凄まじいシークエンス(ファルジャ作品常連のヴァンサン・コロンブが素晴らしい)があったり、ラストの衝撃的なバトルでは室内の周回構造を利用した運動によってサスペンスを作り上げていた。このような場面ではアクションを丁寧に積み上げて物語を綴っていたが、一方で主人公が不死鳥のごとく復活する場面なんかは現実的ではなく、かなりフィクショナルな力を信じて撮られているのだ。
『The Substance』ではより大胆な作劇になり、純然たるジャンル映画となっていた。特に終盤は想像の斜め上をいく吹っ切れっぷりであった。
主人公エリザベス(デミ・ムーア)が手にする「サブスタンス」には説明書らしい説明書は同封されておらず、その部材の役割と使用時の注意事項が一言デカデカと書いてあるカードが何枚か入っているだけである。本作の語りもこれと同じように、長々とした説明はせずに断片的な情報を映像に込め、それがテンポ良い編集によって重ねられていく。
劇中で"YOU AER ONE"と強調される通り、エリザベスと彼女から生まれるスーは(マーガレット・クアリー)あくまで一つの生命体として成立する。スーはエリザベスの体液を定期的に補給しなければならないし、「彼女等」は一週間ごとに互いに”入れ替わる”必要がある。彼女はこの若い肉体に溺れてしまい、上記のルールを徐々に破ってより長くスーであろうとする。すると、代わりにエリザベスの肉体は老いていく。そしてエリザベスはスーの強欲さに怒り、暴飲暴食して部屋をめちゃくちゃにする。一方、彼女の自暴自棄的な行為に対してスーは嘆くのだ。この展開は、二人は一人であることを考えれば、ある種のメタファーとして機能するだろう。
我々は目先の欲望に負けやすい。その結果、我を忘れて実行した自分の行為を、後から後悔する。エリザベスは「若く美しくありたい」という欲望を満たすために、「サブスタンス」という薬物に手を出し、それへの依存から抜け出せなくなったといえる。もっとも、彼女がそうなったのはー彼女が属するショービジネスでは特に顕著だがールッキズムやエイジズム的な価値観を満たすように要求してくる社会に原因はあるだろう。
本作では「サブスタンス」という物質を介して、「美しさ」や「若さ」に囚われた人間がいかに壊れていくのかを見せ、それによってルッキズムやエイジズム、それらと関連するマスキュリンな社会を風刺しているように見える。これはファルジャが『リベンジ』で描いた有害な男性性と通ずるし、『リアリティ・プラス/リアリティ+』で風刺したルッキズム等の表層志向とは地続きで繋がっている。
ただ、これを語るには大きな問題がある。エリザベス/スーは肉体や一部の記憶こそ連結されているが、あくまで「別人」として見えるように描かれるのだ。これでは、スーが「サブスタンス」を求めるのは当然である一方、エリザベスが「サブスタンス」に依存する根拠がかなり弱まってしまうだろう。そして何より、"YOU AER ONE"であることの重みがなくなってしまうのではないか。また、本作がジャンル映画志向なことは個人的には楽しめたが、一方でそれによって風刺が表層的になっているとも思う。老いたエリザベスがやけに俊敏だったり、スーがエリザベスを蹴飛ばすと彼女が吹っ飛んでいったり、そういうところは一周回って面白くはあるが。
あと、個人的にはスーがトークショーに出演する場面で彼女とホストを同一フレームに収めるカットがないのは地味に気になった。逆に地味に良かったのは、あからさまに有害なプロデューサー役のデニス・クエイドの弾けっぷりである。『リベンジ』の男三人も印象的だったし、ファルジャはジャンル映画の中でトキシックな男を描くのが巧いのかもしれない。