リドリー・スコットの新作『グラディエーターⅡ』を観た。正直なところ、リドリー・スコット作品という前提で見れば、そこまでビジュアル的に惹かれるショットはなく、前作をなぞったような部分はそんなに面白くはなかった。また、全体を通してかなり端折られたような印象があり、前作『ナポレオン』同様にいかにもディレクターズカット版がありそうな感じであった。それでも個人的には結構好きな作品である。リドリー映画としては直球の英雄譚のようにも見えるが、個人的にはやはり彼らしい視点が存在しているように思えるのだ。
映画はマルクス・アカシウス将軍率いるローマ軍がヌミディアを征服する場面から始まる。主人公ルキウスは奴隷となり、彼の妻ルキアを殺される。つまり、前作と逆の視点から物語が始まるのだ。この冒頭からそうであるように、本作は前作を単に真似るのではなく、より複雑な関係性を描いていく。ただし、ルキアスがグラディエーターとして名を馳せていく様は前作のマキシマスのそれと相似であり、後者がラッセル・クロウの魅力で推進されていたこともあって、正直あまり面白くはない。ルキアスは妻を殺したローマ兵、特にアカシウスに対する復讐心に駆られており、グラディエーターとしての強さもあって順調に大衆の心を掴んでいく。
一方のアカシウスは、民を軽んじるゲタ&カラカラ帝の圧政に不服であり、妻ルッシラと共にクーデターを企てる。さらに、かつてアウレリウス帝の下に隷属されていた奴隷商人マクリヌスが暗躍し、地位を上り詰めていく。このマクリヌスが台頭し出したあたりから、後期リドリー・スコットらしい面白さが見えてきた。
ゲーム・マスターであるマクリヌスの策略によってローマは混迷を極める。彼はコロッセオという場を利用してローマ転覆を図るのだ。コロッセオは大衆の欲望のまなざしの焦点となる場である。彼らはコロッセオの中で流れる血に悦び、自らの欲求を満たす。そして、それを良く思っていない政治家も、ただ傍観するしかできない。為政者が血を与えて大衆がそれを享受するという単純な構図がそこに存在するが、本作ではそれが掻き乱される。大衆は為政者から剣を向けられ、政治家もコロッセオの中心に放り投げられるのだ。「その世界に存在する以上、貴方は決して無関係ではいられない」というテーゼはまさにリドリー・スコット作品らしさの一つといえるし、例えばコロッセオ=X(SNS)と捉えても成立する構図だろう。また、ローマ帝国を解体していくように見えたマクリヌスの目的も、大義というよりも結局は復讐だったり自分が皇帝の座につくことであり、私利私欲によるものだといえる。社会階層によらず人間は等しく愚かだと言わんばかりの混沌ぶりには、どこか『プロメテウス』の「人間は愚かだし、神も同じく愚かだった」という身も蓋のなさも思い出した。
それでもやはり『グラディエーター』の続編らしく、ルキアスは英雄らしい行動を成し遂げる。マクリヌスを破り、ローマ軍とアカシウス軍の衝突を止めたのだ。しかし、「理想のローマ」を語り戦争を一時食い止めても、彼が今後どうしていくのか、いきたいのかは見えてこない。混沌の末に、コロッセオの中心でルキアスはマキシマスの声を求める。立派な演説をかまして戦争を食い止めた英雄が最後に見せる「私は一体どうしたらよいのか」という態度は、本作に空虚な後味を残す。神(≒マキシマス=父)に追従するように偉業を成し遂げたが、「彼自身は歴史で参照されるような「英雄」と呼べるのか?」という疑問を残す点では、『エクソダス 神と王』を思い出す。モーセの奇蹟を反英雄譚的に描いた『エクソダス 神と王』ほどでないにせよ、動物パニック映画みたいな要素があったり、全体的なあっさり感など両作は色々と似ている。
完成度の点ではいかにもディレクターズ・カットが出そうな作りの本作は前作に劣るが、前作のカタルシスを汲んだ英雄譚を後期リドリー・スコットらしいいやらしさを含めながら語る作劇は嫌いになれない。