otaku8’s diary

映画のこととか

『この夏の星を見る』感想〜斥力と引力〜(ネタバレあり)

 前評判が良かったこともあり、『この夏の星を見る』を観た。確かに良かった。もっとも、群像劇としての交通整理は十分とは言えず、途中は中弛みを感じた。その意味で、脚本はもっと上手く出来たはずである。ただ、その不満点を補うだけの魅力も感じた。特に、コロナ禍における「孤立」に対する反作用を、天体というはるか彼方の存在を観測することで描いた点が素晴らしかった。今回はこの点について書いていきたい。

 本作では、コロナパンデミックの影響で、人々は互いに”リアル”な交流が叶わない状況にある。特に中高生にとっては、そのような「孤立」は受け入れ難く、茨城、東京、長崎という物理的にも隔離された地域に住む若者たちのフラストレーションが描かれる。そんななか、彼らを繋ぎとめるイベントがオンラインスターキャッチコンテストである。そもそも、このコンテストは茨城県立土浦三高の科学部から始まった実在のコンテストであり、土浦三高は劇中の砂浦三高のモデルである。活動報告を読むと、劇中に登場する、飯塚の姉が車いすユーザーであることの意味も考えさせられる。

database.nakatani-foundation.jp

 劇中でのコンテストの描き方は、例えばルールが明瞭に描かれないことや大会に向けた練習の描写が不足していることなど、完璧なものではないとは思う。

 スターキャッチコンテストでは、自作の天体望遠鏡を用いて、指定された天体を素早く”キャッチ”する必要がある。本作では、彼らが望遠鏡を作製する様子や、その望遠鏡で天体を観測する際のテクニカルな動作が描かれる。

 クロード・ベルナールは、望遠鏡を用いた天体観測について、以下のように考えた。

ベルナールの見解によると、天文学は距離を置いた観測にならざるをえないので、実験段階に進むことはできなかった。なぜなら、望遠鏡によって眼に知覚可能なものを増大させることはできたが、望遠鏡が可視化した遠い星の運動方向をコントロールできなかったからだ。天「体」にはたらきかけることは不可能だったが、天文台の管理者たちは、所属する観測者たちの身体へとうまくはたらきかけ、身体的な感覚による観測の主観的要素を最小限にした。実験の場は、遠くにある天体から観察者の身体へと移行したのだった。

リサ・カートライト『X線と映画──医療映画の視覚文化史』望月由紀訳、長谷正人監訳、青弓社、2021年、67頁

つまり、天体は遠すぎるので観測者が直接コントロールできない(例えば顕微鏡だったら対象に触れて操作できる)。その代わり、観測者の身体が規律・訓練される(測定方法の標準化など)ということである。そして、そうした身体の規律化は、フーコー的には、社会に対して個人が自らを律し、従順になっていく過程といえる。

 コロナ禍の日本では、例えば「自粛警察」という言葉が流行ったように、相互監視社会の傾向が強まった。劇中でも、長崎-五島に住む円華は、パンデミックが起因となり、実家が営む店が心無い罵倒を受けたり、親友小春からも引き剥がされてしまう。そうした相互監視社会の中で生まれるディスコミュニケーションによって、人々の孤立化はどんどん進んでいく。

 本作におけるエモーションの高まりは、そうした「斥力」に対する反発としての「引力」が、身体を規律化するはずの「観測」という運動によってなされていく瞬間に宿っている。

 望遠鏡という観察機器によって天体という触れられない存在に肉薄し、遠く離れた場所の者たちが繋がり合っていく。遥か彼方の天体が観測によって近づくのは、パンデミックで隔絶された津々浦々に住む人々が観測を通じてつながっていくのと相似形になっているのである。そしてそれは、「孤立」へと向かう身体が、天体観測=規律的行為を通して、むしろ「他者とのつながり」へと開かれていく反転を感じさせる。その様子を、希望に溢れつつも不安定な中高生たちに重ね合わせることでエモーショナルに描いている。

 亜紗が、憧れであった宇宙飛行士が乗るISSを望遠鏡で捉えようとする。徐々にピントを合わせていき、雲から抜け出した宇宙船に真に迫り、それを人々と共有した瞬間、彼女は失われつつあった夢への希求を取り戻しながら、断絶を乗り越え、「何ならできるか?」を明らかにしたのだ。