otaku8’s diary

映画のこととか

『ジュラシック・ワールド/復活の大地』感想〜「生」を取り戻す戦いとクライトンへの回答(ネタバレあり)

 ギャレス・エドワーズ『ジュラシック・ワールド/復活の大地』(以下、『復活の大地』)を観た。最新作『復活の大地』を語る前に、シリーズの原点に少し触れておきたい。

 

『ジュラシック・パーク』(1993)

『ジュラシック・パーク』は言わずもがな名作である。監督がスピルバーグなのだから演出が冴えているのは当然として、「ジュラシックシリーズ」として傑出している点として次のことを挙げる。まず、何と言っても本作の製作・公開自体が「恐竜を蘇らせ、人々に驚きを与えること」と完全に重なるということである。VFXによって恐竜をスクリーン上で蘇らせたという驚きは、劇中でグラント博士らが初めてブラキオサウルスを見たときの彼らの眼差しとリンクしている。また、もう一つの優れている点は原作からのアダプテーションだろう。娯楽映画として完成度を上げるために原作をシェイビングしつつ、著者マイケル・クライトンが強く主張していた「人類の傲慢さ」についての批評も取り込んでいる。特に、ラストの素晴らしさについては以下で述べた。簡単に言うと、「創った者」「創られた者」「創られていない者」を対比させ、端的かつ映像的に原作のエッセンスを示している。

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『復活の大地』

「生きた恐竜」の再生

 さて、今回の『復活の大地』であるが、小骨が引っかかる箇所はあるが、結構良かった。これで酷評されるのは、ギャレスにとってかなり酷なことだと思う。

 グラント博士ら=観客が生きたブラキオサウルスを初めて目撃して以来、ジュラックシリーズを語る上で、映像技術史との関わりを外すことはできない。1993年の『ジュラシック・パーク』でCGが導入されたのは、リアルな恐竜を描くにあたり技術的制約があったためである。結果的にアニマトロニクスとCGの組み合わせ(物理的なリアリティ×デジタル技術)によって「生きた恐竜」を再生することに成功する。この歴史的瞬間を、映画のキャラクターと同時に目撃したのだ。2015年の『ジュラシック・ワールド』では、テクノロジーが発展し、恐竜はテーマパークで展示され、人々に消費される存在となる。2015年と言えば、既にVFXが大きく進歩し、観客がCGによる表現に見慣れている頃である。恐竜=未知が既知となり、彼らはジュラシック・ワールドの来場者と同じように「生きた恐竜」を消費していく。一方で、そうした消費社会の中でビジネスマンは顧客の(黙示の)要求を満たそうとする。その結果、誕生したのがインドミナス・レックスやインドミナス・ラプトルである。2025年の『復活の大地』では、その成れの果ての姿としてD-REXが登場する。「できるかどうか」だけを追求したようなその姿は、もはや恐竜からはかけ離れている。また、CGを使えば何でも表現できる時代においては、観客もその姿に驚くことはない。劇中の人々が恐竜への関心を失ったのと同じように、観客もCGによる創造(広く言えば映画体験)への興味が薄れているのだ。

 そうした状況下で、本作は再び観客のスクリーンへの興味を取り戻そうとする。本作の恐竜の多くはCGによって描かれている。一方で、35mmフィルム撮影とロケ撮影によって往年のアドベンチャー映画(一作目を含む)の質感と映画内事象の実在感を高めている。その組み合わせ(物理的なリアリティ×最新デジタル技術)によって、シリーズが追求してきた「生きた恐竜」の再生を新しい体験として提供しているのだ。本作では『ジュラシック・パーク』のブラキオサウルスのシーンと類似する場面として、キャラクター達がティタノサウルスを目撃する瞬間が用意されている。このシーンは本作の中で最も美しい場面である。状況は一作目のシーンとほぼ同じであるが、それをギャレス・エドワーズ十八番の構図に落とし込んでおり、他では見たことのないような新鮮味のある映像になっている。長い尾を宙に舞わせながら、2頭のつがいが愛を交わす。今の時代だからこそ描ける見せ場である。CGで何でも描くことのできる時代だからこそ、それを駆使してこのような瞬間を創り上げることが必要である。グラント博士の門下生であるヘンリー・ルーミス(ジョナサン・ベイリー)は彼らの交わりに涙する。彼が務める博物館は、人々の恐竜への無関心から経営に苦しんでいる。かつてグラント博士と同期した観客は、「生きた恐竜」が持つ、まだ色褪せていない、人々の眼差しを取り戻せるであろう力強さにグッとくるのだ。

「傲慢さ」への抵抗

 テーマ的な側面でも本作は新しい試みを行っていたと思う。マイケル・クライトンの原作では「人間の傲慢さ」について強く批判されている。これまでの映画では、そのテーマに対してシニカルな着地で終わることが多かった。『ジュラシック・パーク』では前述したように、「創った者」は「創られた者」を制御できずに退散する着地であり、『炎の王国』では「創られた者」への責任を全人類が負うという終わり方である。

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 「ではどうすれば良いのか?」という問いかけに対して、『復活の大地』は極めてシンプルに回答している。それは「利己的になりすぎず、他者を想い、助け合うこと」である(話がややこしくなるので、「利己的な遺伝子」の話はしない)。ここで、人間の傲慢さ=利己性に対する利他性と言える。劇中では製薬会社の営業担当マーティン・クレブス(ルパート・フレンド)が利己性を体現する人物として描かれる。一方、本作では、これまでの作品よりも他者のために動くキャラクターが目立つ。何なら、クレブス以外のキャラクターは、あまり自己中心的な言動をしない。皆、他者のために行動を起こす。象徴的なのはゾーラ・ベネット(スカーレット・ヨハンソン)とルーミス博士の対話である。ゾーラは当初は新たな心臓病の薬を特許化し、報酬を貰うことを望んでいたが、どんな立場の人であっても薬を手に入れられるようにするべきという博士の主張によって心が動かされていくのだ。また、一行がD-REXに襲われたとき、彼らを救ったのはダンカン・キンケイド(マハーラシャ・アリ)の利他的な行動があったからである。人間が持つ傲慢さに、人間的な利他性で対抗する。シンプルなのに、シリーズ中、これまでの映画では示されなかった方法である。ちなみに、この人間讃歌的な雰囲気に最初に気がついたのは、第一ミッションの場面である。モササウルスの血液を採取するため、クルーは協力し合う。銃を構えるゾーラをルーミスが支える。無事に採取に成功した瞬間、アレクサンドル・デスプラによる高らかなファンファーレが鳴り響く。この類のカタルシスはこれまで描かれてこなかったものである。

その他良かった点

 他にも良かった点はいくつかある。例えば、先述した「往年のアドベンチャー映画の質感」という意味では、撮り方を含め、やはりスピルバーグリスペクトを感じさせる。また、恐竜があくまで野生動物として描かれており、特にワールドシリーズで顕著だった、彼らのキャラクター化を避け、「役割」から解放された生を魅せているところも良かった。それはD-REXも同様である。D-REXを「悪役」に仕立てて「善の恐竜」と戦わせるというナラティブに走らせないのだ。ただし、その意味でアクイロプスの幼体ドロレスは浮いていたし、 イザベラ・デルガド(オードリナ・ミランダ)との物語は明確に良くないと思う。

良くなかったところ

 イザベラとドロレスの関係は、この「利他性」というテーマから逸脱してしまっている。断っておくと、個人的には本作のキャラクター達は魅力的に映っており、その点では批判するつもりはない。問題は、イザベラがドロレスを餌付けし、しまいには島から連れ帰ってしまうところだ。しかも、周りの大人たちもそれを許容しているところだ。映画のキャラクターは必ずしも倫理的に正しい必要はないが、ここに関してはシリーズの軸からブレてしまう行為であり、やはり良くないと言わざるを得ない。ドロレスが赤道付近外で生き残れないことをイザベラが見込んでいたなら恐ろしいが。

まとめ

 賛否両論の本作であるが、個人的には支持したい。面白かったのは前提として、意義のある試みが感じられたのが良かった。失われた「生きた恐竜」≒映画への関心を再びスクリーンに蘇らせようとしていること。また、マイケル・クライトンが課したテーマに対し、シリーズで初めて人間的な方法によって回答していることである。