三宅唱監督の最新作『旅と日々』を観た。個人的には超面白かった。特に大きな事件が起こるわけでもないのに、ただ面白いのだ。同時に、三宅監督つながりで、2022年の映画批評月間で公開された『ブリュノ・レダル、ある殺人犯の告白』が脳裏をちらついた(三宅監督がアフタートークで登壇した)ので、その視点で殴り書きしていく。
『ブリュノ・レダル』はモノローグ映画の傑作である。本作では、殺人犯であるレダル(ディミトリ・ドレ)が回顧録を書いていき、それに沿ったナレーションで映像が展開される。つまり、ひたすら説明的であるわけだが、その「書く」という行為によって非常に主観的な映画となっていることが大きな特徴である(自慰的といった方が良い)。
一方で、『旅と日々』では、主人公(シム・ウンジョン)である脚本家が筆を走らせるカットとその本を映像化した映画内映画のカットの反復で始まる。そして、ある印象的なセリフ(大意訳)がある。
「日常とは言葉に追いつかれること。旅とは言葉から離れること」
我々は日常生活において、世界を言葉で説明する。しかし、見知らぬ土地に行くとき、見聞きした事象が言葉で翻訳される前に流れ込む。しかし、その土地にも慣れてくると、次第に言葉で説明できるようになる。
ソシュール的には、「言葉→モノ」、つまり言葉によって世界が規定されるといえる。言葉が世界を規定するという観点では、『ブリュノ・レダル』が言葉によって主観的な世界を創り出していたことも、これに当てはまる。『旅と日々』で主人公は脚本づくりに行き詰っている。前半に展開される映画内映画の上映会で、彼女は「自分はあまり脚本が上手くないなと思いました」と述べる。つまり、本作の前半で彼女が言葉によってコントロールしようとした世界は、映像に翻訳され、客体化されることで、それは理想とはかけ離れてしまう。
その考えに則れば、主人公は旅に出ることで一度「言葉の檻」=規律化された世界を崩し、創造性を取り戻そうとしているのだろう。劇中、主人公は「よく喋るやつだな」と宿主(堤真一)にぼやかれる。確かに主人公は何気によく喋る。つまり、「言葉の檻」を解体しながらも、言葉を手放せない彼女は同時にそれを組み立てようとするのだ。
『旅と日々』を観て、「言葉にはできないけど感じるもの」があるとすれば、それはまさに、本作が映画という旅に連れ出してくれていることと同義だと思う。