『私がビーバーになる時』を観た。動物を主人公としたアニメーション映画は数多く存在する。特に近年、それによって現実の人間社会を風刺するような寓話性のある作品が目立つ。しかし、このアプローチには大きな欠点があると思っている。そもそも、自然界における生物多様性や肉食/草食動物の共存は、人間社会における「多様性」や「共生」とは異なるのだ。自然界では自らの生のために他者を殺すし、他者はその生のために闘う(人間もその一部である)。その営みの構造をそのまま用いて、人間社会に蔓延る偏見や差別を描こうとすると、当然ながら破綻する部分が生まれる。
だから、『ズートピア』も『野生の島のロズ』も傑作だと思うが、違和感が残る。肉食動物たちは何を食べるのか?肉食動物が草食動物を食べない世界は果たして理想なのか?例えば『ズートピア』では、監督曰く、肉食動物たちは植物性タンパク質や虫を食べているらしい。しかし、本作のテーマから鑑みれば、虫の「人権」を無視していいものなのか?もっと言えば、植物はどうなのか?
@Prajzis - in #Zootopia carnivores eat plant-based proteins and insects. Bug-burga is their favorite restaurant - @ByronPHoward - got a pic?
— Jared Bush (@thejaredbush) 2015年10月27日
自然界におけるライフサイクルを社会問題に転用した場合、突き詰めれば破綻が存在するはずである。『野生の島のロズ』については↓の記事に書いた。
『私がビーバーになる時』は、その問題を完璧ではないものの、ある程度克服しようとしている。まず、本作は動物を単に擬人化した作品ではない。人間界/動物界のレイヤーを、現実に即した形で描いている。そのうえで、両者の橋渡しとなる「Hoppers」によって二つの世界を翻訳しながら見せていく構成である。そのため、あくまでそれぞれの世界をその世界の視点で眺めるという形になっている。さらに、動物界では、肉食動物と草食動物の関係において、食べる/食べられる関係を罪とせず、むしろそれを否定することを罪とする。ここは面白いと思った。
擬人化された動物が喋っていると、次の瞬間に捕食される。死と隣り合わせの世界観がちゃんと描かれている。さらに面白いのが、主人公が誤って昆虫の女王(蝶)を潰し、その手を壁にこすって拭くシーンである。主人公は明確に自然に対する愛に溢れる人物として冒頭から描かれる。彼女なら野生動物を守るために自分の命も犠牲にするたろう。しかし、そういう彼女であっても、半ば無意識的に動物を殺してしまう(屍の上に人間は生きている)ということを見せた印象的な場面である。
本作も現実の人間社会に対する風刺となっているわけだが、対立軸は肉食動物/草食動物ではなく、あくまで現実と矛盾しない位置に存在する。例えば人間界/動物界、環境保護/インフラ整備、自然/テクノロジーといった具合である。そのような二項対立を勧善懲悪的に解決するわけではないところも良かった(悪役はいるが、あくまで個人的な欲望を動機とする古典的な悪である)。互いに歩み寄る姿勢が大切である。