otaku8’s diary

映画のこととか

『サンキュー、チャック』感想〜生を踊る〜(ネタバレあり)

 『サンキュー、チャック』は、2025年ベスト10に選んだほど、私のお気に入り作品となった。その後、何度も思い返して「良いな」となったから、やはり本作を好きなのだと思う。

 本作は基本的には原作を忠実に再現しており、ナレーションの部分も大方、原作の文をなぞっている。したがって、本作の素晴らしさのベースにはまずスティーヴン・キングがいる。しかし、映画ならではの要素も多々あり、その多くも上手くいっていると思う。そして、原作に忠実なのにもかかわらず、驚くほどマイク・フラナガンが示してきた人生観と合致しているのも奇跡である。

死を待つという恐怖

 構成は第3章、第2章、第1章と、チャックの生涯を終わりから始まりに遡っていく作りである。ただし、単に過去に遡るわけではなく、例えば第3章には第1章で登場した人物が登場するので、円環のような作りになっている。いや、円環というよりも、本作のキーワード「I contain multitudes(わたしのなかにはたくさんのものがある)」が意味するように、人生の包括性を表しているようである。そしてこの人生観は同じくマイク・フラナガンの個人的作品である『真夜中のミサ』と特に強く共鳴していると感じた。

 第1章では、チャックの死と宇宙の消滅、そして私たちの人生の終焉とが接続される。「I contain multitudes」は、人生が宇宙のように無限の可能性に満ちていることを示唆するが、第1章から既に人生の包括性が逆説的に示されているのだ。インターネットやあらゆるインフラが機能しなくなり、人々が路頭に迷う。そのような世界の病床で、人々はただ死を待つしかない。本作における「ペニーワイズ」を敢えて指名するなら、それは「訪れる死をただ待つこと」である。第1章において、人々は宇宙=人生の終わり(=チャックの死)を待っている。そもそも、フラナガン作品を観ていると、「死を待つ」という展開に多々出会う。『アッシャー家の崩壊』では今後死ぬキャラクター達を初めから提示するし、そもそも”死”を待つという話だ。また、『真夜中のミサ』のとある場面では、死を避けられない状況下で、人々が残された時間でどのように振る舞うのかが描かれる。この、死をただ待つしかない恐怖に対する、ある種の回答が続く章で描かれる。

神はなぜ世界を創ったのか?

 第2章でチャックはドラムのビートに合わせて踊りだす。自らでも何故そうしたのかは分からない。まさに身体が勝手に踊りだすという表現がぴったりである。この章の最後で印象的なナレーションがかかる。

やがて彼は、食べものを噛む力を失い、食事はミキサーにかけたものになる。
やがて彼は、(中略)妻の名前さえ忘れてしまう。

けれど彼が——ときおり——思い出すのは、あのとき(中略)ドラムのビートに合わせて腰を動かしはじめたことだ。
そして彼は思うのだ、神がこの世界を創ったのは、そのためだったのだと。
ただ、そのために。

(King, Stephen. The Life of Chuck: Now a major film (English Edition) (p.62)から)

これは原作に書かれている一節である。マイク・フラナガンは宗教研究の末に無神論に至ったというが、ここでは「神」という単語が明言される。もし神がいるならば、何故こんなにも世界を痛みに満ちた場にしたのか?しかし同時に、もし神がいるならば、人生において喜びを実感できるほんの一瞬、そのすばらしい瞬間のために世界を作ったのではないか。ここで重要なのは「神」を人生における喜びを説明するために用いていることだろう。

死と神

 『真夜中のミサ』は宗教研究の末に無神論に至ったマイク・フラナガンにとって、非常にパーソナルなドラマである。劇中、とある人物が死に際に(恐らく脳内イメージとして)「死後の世界」について独白する場面がある。ここで語られる内容は『サンキュー、チャック』と重なるものであるので、是非観ていただきたい。それは、死を個の消滅というよりも、身体を構成していたものが世界へ還っていく過程として捉える。つまり、死んでゆく身体は、その身体を構成していた要素に還元されていく。その意味で、私たちは宇宙であり、数多の宇宙やその他すべてを包括して、人はそれを「神」と呼ぶ。

 『サンキュー、チャック』では、そのような人生観を反対側から描いたように感じる。つまり、私たちひとりひとりの中には既に世界がある。私が死を迎えるとき、それは世界の崩壊を意味するが、同時に、より大きな宇宙の一部に還元されるのだろう。

 そして本作は、死がやって来るその時まで、「私という素晴らしい世界」を生きることを肯定しているのだと受け取った。開かずの屋根裏(ここは『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』のようだ)に入ったチャックは死にゆく未来の自分を見つける。そして未来の自分は初めから存在しなかったかのように消える。ここでチャックは「ペニーワイズ」――ただ死を待つという恐怖――に打ち勝ったといえる。まだ来ない死に怯えるよりも、「私という素晴らしい世界」を生きていく。その態度こそが、本作の核心なのだと思う。

生を踊る身体

 本作は基本的に原作に忠実であるが、映画オリジナルの要素も多々あり、また、映画ならではの魅力も詰まっている。まず何といってもダンスシーンである。ダンスは身体性が伴う行為であり、まさに映画的な見せ場となる。第2章と第3章のダンスシーンは、凝ったカメラワークや派手な演出で見せるのではなく、あくまで身体の動きを引きで映す。ダンスシーンで俳優にやたら寄ったり上半身だけ映す映画もあるが、本作はそのようなことはせず、生身の身体性を強調する。これは生とその喜びを語る本作のテーマを補強する表現だとも思う。ちなみに、2章でドラムを叩くのはジャレドという人物だが、映画ではテイラーに変更されている。演じているのはThe Pocket Queenという名で活動する本物のドラマー、テイラーである。やはりここも、本当にその場でドラムが叩かれ、そのリズムに乗って踊り、それを見つめる人々のまなざし、という生身の身体性が作品のテーマに合っており感動を増幅させる。

 そして、第3章でのダンスシーンでチャックとキャットの場面が、演じるベンジャミン・パジャックとトリニティ・ジョリー・ブリスの好演も相まって素晴らしい。ダンスパーティーの夜、キャットはチャックを踊りに誘うが、彼は「脚が痛い」と言い訳し、なかなか踊ろうとしない。外に出て星空を眺めていると、流れ星を見つける。そして、スペンサー・デイヴィスの『Gimme Some Lovin’』が流れ始めると、彼はキャットをダンスに誘う。原作ではチャックは彼女と踊るに相応しい曲になるのをただ待っているという印象が強い書かれ方になっている。映画では彼が踊ること自体を本当に渋っていそうな見せ方になっており、夜空を眺めるのも映画オリジナルである。この改変も良い。流れ星というささやかな幸福を受け取ったチャックが、その勢いでダンスフロアに舞い戻るのである。原作ではジャッキー・ウィルソンの『Higher and Higher』に乗せて踊るところが、『Gimme Some Lovin’』に変わっているのは、やはり、この高揚感を与える効果があると感じる。チャックはダンスの中で2本指を宙で振るが、これはダンス好きな祖母が料理中にしていたものである。そして後年、ストリートドラマーが生み出すリズムに誘起されるように、彼が無意識的に行った動作である。「I contain multitudes」を端的にかつ感動的に示す、映画的なアクションである。そして、ここで泣いたのだった。