otaku8’s diary

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『チェイン・リアクションズ』感想~『悪魔のいけにえ』と私~(ネタバレあり)

『チェイン・リアクションズ』を観た。『悪魔のいけにえ』について5人の作家や批評家が語っていくドキュメンタリーである。これが面白かった。『チェイン・リアクションズ』というタイトルは、『悪魔のいけにえ』を発端にして、連鎖反応的に「私の『悪魔のいけにえ』」が形成されていくことを意味しているのだろうか。内容は、アカデミックな分析も行われるが、それも含めて「私の『悪魔のいけにえ』」が語られる。そして映画一般において、それを自分ごととして受け止めて語ることこそが本質的に重要だと分かる作品でもあった。

 論客たちは「個人的なこと」から『悪魔のいけにえ』への接続を試みる。1人目パットン・オズワルドは彼にとっての原初的ホラー映画である『吸血鬼ノスフェラトゥ』との比較を軸にする。ローアングルで家に向かうパムを青空と共に捉えた破滅的予感を捉えたショットと吸血鬼が船でやって来る場面の類似性や、逆に両作品における太陽がもたらす効果の対比を指摘する。彼のパートでは『風と共に去りぬ』や『ありふれた事件』も用いながら、分かりやすくかつ鋭い批評を行っており、結構タメになった。

 2人目は三池崇史である。彼は『悪魔のいけにえ』との出会いから語る。チャップリンの『街の灯』が満席だったから、代わりに観たというのが面白い。彼が指摘するのは、映画における暴力には観客が”共感”できる痛みやキャラクターへの愛が必要だということだ。監督作『オーディション』などのフッテージを交えながら、自身が重要視する事項がいかに『悪魔のいけにえ』に含まれており、そこから影響を受けたのかについて語る。

 3人目は評論家アレクサンドラ・ヘラー=ニコラスである。『悪魔のいけにえ』が荒涼としたテキサスを舞台にした映画であることから、自身の出身であるオーストラリアという地域性、およびオーストラリア映画との比較を行う。特に、オーストラリアで流通していたバージョンはテープが擦り切れており、青空が見当たらないほど黄色味が強かった。それが恐怖を倍増させたようだ。

 4人目はスティーヴン・キングである。彼は入院中に息子と共に鑑賞した『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に衝撃を受けた体験と本作を重ねる。彼が指摘するのは、「本物感」が与える恐怖である。また、インディペンデントだからこそ可能な表現について指摘し、本作はハリウッド大作では不可能な映画であると語る(その文脈でサム・ライミを称賛しながら、キューブリックを皮肉っていたのには笑った)。さらに、ホラー映画における倫理性について彼なりの考えが述べられる。彼はホラー映画は観客に不快感を与えることを目指すべきだと強調する。そして、その意味で『悪魔のいけにえ』は成功している。一方で、高校での銃乱射事件を受けて著作『ハイスクール・パニック』を絶版としたことを語り、映画が現実に与える影響についても指摘していた。

 5人目は映画監督カリン・クサマである。彼女は本作が「アメリカの闇」を描いた作品だと指摘する。つまり、被害に遭う若者達もソーヤー一家も共にアメリカというものを体現する存在である。そして、パットン・オズワルドが指摘したように、太陽光が狂気を撒き散らすラストでは、現代アメリカが狂気に毒されていることを示唆する。日系アメリカ人であるクサマだからこそという視点でもある。そういうテーマ性を表現するには本作のような不快感を伴うような描写が必要だとも語っていた(キングの指摘と同様)。ここで、監督作である『ストレイ・ドッグ』のとある衝撃シーンが引用され、『悪魔のいけにえ』から受けた影響が示される。また、ベルイマンやタルコフスキーを例に出しながら、フーパーがキャラクターをドア口に配置することも指摘しており面白かった。

 いずれも、『悪魔のいけにえ』を「個人的なこと」と接続しながら語っている。映画を語る面白さはこういうことだよなと観ながら実感した。シネマスコーレで鑑賞したのだが、上映前に支配人とエクストリーム配給の星野さん、白石晃士監督のトークがあったので、より一層そういう感情になった。特に星野さんは「『悪魔のいけにえ』も観ていないなんて」という周りの大人達への反発から長らく観ていなかったらしく、その話も面白かった。そういう意味では、私が『悪魔のいけにえ』を観たのは25歳を過ぎてからであり(具体的にいつかは憶えていない)、1か2回程度しか観ていないので、『悪魔のいけにえ』に対する感情は上記のような大人達に比べると軽い気はするが、『チェイン・リアクションズ』を観て猛烈に再鑑賞したくなった。