『マンダロリアン&グローグー』を観た。面白かった半面、微妙だったところもあり、批判的な評価が多いのも理解はできる。それでも、本作が劇場公開されていることは歓迎したいと思う。
既に各所で言われているように、本作を観るにあたってドラマ版を観ている必要はないし、何なら本作が初SWでも問題ないと思う。本作は基本的には分かりやすい活劇が主となる。アニメ版等から何人か重要キャラクターが登場したりと、他作品とのつながりは多いものの、本作だけ観ていれば何の問題もない作りが徹底されている。また、良くも悪くも、本作で起きた出来事がサーガ全体を揺るがすことはないのだ。ディン・ジャリンとグローグーは初めこそ帝国軍の残党と対峙するが、後半は双子のハットが敵となり、随分とローカルな戦いに終始する。しかも、その間、ディンは怪我によって結構な長時間、物語の前線から退く。タイトルに名を冠した主人公でありながら、彼はしばしば、その中心から外される。その緩さも含めて、本作は大作映画というより、やはりドラマ版の一挿話に近い。
元々は『マンダロリアン』シーズン4でやるはずの内容だっただけあり、ドラマのエピソード的な話ではある。確かに、タイトルどおり、ディンとグローグーの物語が進展する点は映画的であるものの、ドラマ版でも同じような関係性の変化は描かれていたと記憶している。なので、やはり「本作の意義」を考えてしまいがちだが、そんなことは些細な問題とも考える。映画シリーズの数々がハイコンテクスト化していくなかで、そこから飛び出した、自由で純粋なSW活劇を映画館で観られるのだから、これは貴重な体験だと思った。
と、ここまでは全体へのざっくりとした所感だが、ここからは私が特にテンションが上がったオープニングクレジットについて書いていく。そもそも『新たなる希望』は、当時オープニングクレジットを付けなかった稀有な映画である。クリス・テイラー著『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』でも触れられているように、『新たなる希望』が通常のオープニングクレジットを置かなかったことは、ジョージ・ルーカスとアメリカ監督協会・脚本家協会との関係にも影を落とした。それでも、あの映画にオープニングクレジットがないのは非常に効果的だったと思う。「遠い昔 はるかかなたの銀河系で…」というオープニングクロールからシームレスに宇宙戦に否応なしに巻き込まれていくあの瞬間は、観客をスクリーンの中の宇宙に招き入れた手を離さない、そういう強度がある。
一方で、『マンダロリアン&グローグー』には映画としては初めてオープニングクレジットが存在する。映画自体はマンダロリアンの帝国軍残党狩りから始まるが、そこから一息つくようにオープニングクレジットが挟まれる。それは、シリーズ全体における本作の立ち位置を表してもいそうだ。従来のSW映画は、クレジットを後景化することで、観客をいきなり神話の内部へ放り込んできた。誰が作ったか、誰が演じているかよりも先に、「遠い昔 はるかかなたの銀河系で…」という世界そのものが立ち上がる。だが本作は違う。オープニングクレジットによって、これはひとつの映画であり、テレビシリーズから派生した一本の娯楽作なのだと、どこか自覚的に示しているようにも見える。ちなみに、「シガニー・ウィーバー」よりも先に「マーティン・スコセッシ」が出てきて笑ってしまった。
また、このオープニングクレジットではルドヴィク・ゴランソンによる『マンダロリアン』のテーマが流れる。改めて、ジョン・ウィリアムズの音楽に頼らないこのテーマの偉大さを実感した。間違いなくSW宇宙の片隅で奏でられてきた旋律であり、それを聴いた瞬間、私はSWを観ているのだと実感できるのだ。
