otakuiyの映画拾い|映画レビューと雑記

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『ロングウォーク』〜歩みは、終わらない〜(ネタバレあり)

 スティーヴン・キング原作、フランシス・ローレンス監督の『ロングウォーク』を観た。スティーヴン・キング原作といえば、大傑作『サンキュー、チャック』が日本では公開されたばかりだが、本作もまた素晴らしい映画だった。ちなみに脚本担当はJ.T.モルナーであり、監督作『ストレンジ・ダーリン』も傑作であった。

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 本作は若者達がただ歩き続ける映画なのだから、彼らが魅力的に映らなければ退屈な作品にもなりうる。その点、本作は大成功しているといえるだろう。本作の美点のひとつがキャスティング。全員良かった。最初の犠牲者カーリーを演じるのが『ジョジョ・ラビット』の ローマン・グリフィン・デイビスというのがまず驚きである。主役となるレイ=クーパー・ホフマン、マクヴリーズ=デビット・ジョンソンのペアは素晴らしく、彼らが魅せる互助の物語が泣けた。

 原作『死のロングウォーク』は『バトルロワイアル』などの元ネタになったらしい。分断された近未来のアメリカで、希望を見出すために開催されるデスゲーム「ロングウォーク」。確かに『バトルロワイアル』っぽい。特にマーク・ハミル演じる少佐は、立ち位置的には北野武演じる教師キタノと似ている。

 アメリカ大陸をただ歩き続けるというシンプルな物語だが、時速4マイル以上を維持しなければならないという、動き出したら止められないシステムの中に若者達が投げ込まれる、という設定には多分に批評性が織り込まれていると感じる。また、彼らは一応、自主的にロングウォークに参加しているが、カーリーが最初に犠牲になってから、自らが死に向かって直進していることを実感するのだ。もともと原作はベトナム戦争への風刺となっていたと思うが、この映画も含めて今の我々にとって自分ごととして捉えざるを得ない作品だった。

 ロングウォークは、国が支える、大衆にとっての人気コンテンツであり、そこに信頼感を得た人々は、大して考えることもなく、そこに参加する。現実でも同じだ。国家や社会のお墨付きを与えたものに対して、私たちは驚くほど無防備に参加してしまう。一国民としての在り方を問われるような作品である。

 『サンキュー、チャック』がかなり原作に忠実だったのに対して、本作は『死のロングウォーク』とは結構異なっている。大まかな流れや場面単位で見れば同じ様なのだが、構成が入れ替えられていたり、キャラクター描写が違っていたり、スケール感が異なっていたりする。個人的には映画版の構成、キャラクター描写は良いと思う。特にキャラクターに関しては人種から変更されている者もいるが、俳優陣がとにかく素晴らしく、良かった。

 映画版では、原作のキャラクターがいくらかミックスされ、その分人数を減らし、一人ずつの描きこみを深めているように見えた。例えば、原作の主要キャラクターのひとりであるスクラムという青年は本作に登場しないが、その設定はコリー・パーカーやオルソンらに分散されている。映画版ではギャラティが死に、マクヴリーズが優勝するが、これも原作とは逆である。しかも、単に逆なのではなく、2人の死に別れ方も随分と異なる。

 一方、原作の方が魅力的に感じる部分がある。『死のロングウォーク』には「群衆」というワードが頻出する。ウォーカー達を”消費”する人々である。映画にもウォーカー達を見守る人々は登場するし、ラストには群衆が描かれる。しかし、「人の死をマラソン観戦するかのように楽しむ人々」が映画ではほとんど描かれていないのは、原作を読んでから振り返ると少し残念ではある。「ロングウォーク」という見世物が国家的イベントとして成立する所以が、この「群衆」の存在にあると思うからだ。

 ラストについていえば、特に賛否が分かれるところだろう。少佐を殺す展開もオリジナルである。商用映画としての改変にも見えるが、ここは個人的にはありだと思う。つまり、ロングウォークは大衆に支えられたシステムであるので、少佐を倒したところで何も解決はしない。だからこそ、少佐の死はカタルシスを持っておらず、マグヴリーズはそのまま闇に向かって歩き続けるのだ。

 一方で、このシーンでは途中から群衆の存在がかき消されており、一種の心象風景のように描かれる。個人的にはもっとリアリズムに則って描いても良かったのかなと感じた。あと、アートがレイに託した首飾りの件を最後はマクヴリーズに回収して欲しかった。