otaku8’s diary

映画のこととか

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』感想〜ジョーカーという象徴〜(ネタバレあり)

 高評価を得た『ジョーカー』だが、必ずしも絶賛一色ではなかった。「面白くない」「スコセッシ映画に頼り過ぎ」といった意見も散見された。それでも、前作が多くのフォロワーを獲得したことは事実である。劇中におけるアーサーが観客の共感を呼んだのなら、映画の力として「共感」が如何に強力なものかを示したと言える。また、映画の文脈を外れてホアキン版ジョーカーが参照され続けていることは、彼が「市民権」を得て身近な存在となったことを意味するだろう(バラエティ番組で「アベンジャーズ 」が共通言語になったように)。
 そういうフォロワーに冷や水を浴びせるような話だった訳だが、(こんなアメコミ大作でそれをやった凄さはあれど)人によってはかなり想定通りの内容であっただろうし、そこに新鮮味はあまりない。その意味で、正直なところ退屈さは否めない。基本的に舞台は刑務所と裁判所の二種類だし、肝心の裁判シーンは単調である。所々に挿入される妄想シーンは、それ以外との境目がはっきりしているので、そこに何ら驚きはなく、淡々と映像を眺めるだけである。それでも個人的には結構好きな作品となった。

アメコミ映画として

 アメコミ映画では、しばしばヒーローは象徴化される。バットマン関連では、例えば『ダークナイト ライジング』ではシンボルとしてのヒーローが強調され、「ヒーローは誰でもなれる」とブルース少年を救ったゴードンの行いを振り返って宣言した。前作『ジョーカー』ではアーサーは「ジョーカー」という象徴を生み出した。

 本作ではアーサー=ジョーカーが解体されていき、アーサー=アーサーでしかなかったことが明らかになる。ただ、本作が前作を覆すものかと言われれば、少し違うと感じた。彼のフォロワーが失望したのは、あくまでアーサー≠ジョーカーという事実にであって「ジョーカー」に対してではないのだ。だから、ラストでアーサーを殺した男が自分の口を切り裂き始める...という流れが成立する。「ジョーカー」という象徴を生んだアーサーには「悪のカリスマ」の器でも何でもなかったのに、その象徴は人々の中に生き続けている。ここで良いのは、アーサーという男の虚しい現実がクロースアップで映されるのと対比されるように、その背景では「ジョーカー」という象徴に憑りつかれた男の(アメコミ的な)フィクショナルな世界が映されるところだ。

 もしかしたら「『ジョーカー』はアメコミ映画を超えた」と評されていたかもしれないけれど、個人的にはそう思っていない。特にラストでは、アーサーが「面白いジョークが浮かんだ」と語るシーンで、ブルースが横たわる両親の間に立ちすくむ馴染みあるカットが挿入される。ここでー全く的外れかもしれないがージョーカー/バットマンの関係を知る人にとっては、ある構造が浮かび上がるはずだ。つまり、トーマス・ウェインら富裕層が創り上げた格差社会は意図せずに「ジョーカー」を生み出した一方で、ブルースも同じ社会で生を受け、「ジョーカー」によって両親を殺されることで、いずれは「バットマン」として誕生するのだろうということだ。両者の、この円環的で鏡像的な関係性は正に「今、自分は正にアメコミ映画を観ているんだ」という実感を持たせてくれた。

 そういう前作がアーサーにとっての「面白いジョーク」だとすれば、本作はそれは単なる「フリ」であったと言っている。つまり、(無意識に。あくまで映画を超えた視点で)自分を「バットマンの宿敵ジョーカー」だと過大評価するアーサーが、実際には取り柄のない孤独な人間に過ぎず、実際に「ジョーカー」と成り得るのは彼が生み出した他人であったという皮肉である。

ハーレイ・クインの存在

 「ジョーカー」という象徴に憑りつかれた人物の代表がハーレイ・クインである。本作で評判の悪いミュージカルであるが、ミュージカルは決して理由なしに行われるのではなく、事の発端はハーレイとアーサーの出会いである。”Folie à deux”=「二人狂い」のタイトル通り、このミュージカルはアーサーとハーレイの二人を繋ぐ精神世界として描写される。本作のハーレイがどのような人物かといえば、「ジョーカー」(≠アーサー)に心酔した女性であり、この点で彼女はお馴染みのハーレイ・クイン像である。彼女はアーサーに「ジョーカー」を求め、彼はそれに応えようとする。その過程がミュージカルとして立ち現れる。そもそも、前作においてアーサーにとって音楽が重要であることは示されていた。特に、彼が地下鉄で初めて殺人を犯した後に踊る場面と、「ジョーカー」として階段を踊りながら降りる場面が印象的だった。彼にとって音楽は、自分が「ジョーカー」に重なるためのキーであると考えられる。
 彼女がメイクを施し「ハーレイ・クイン」≒「ジョーカー」に近づいたとき、一方でアーサーは自分はジョーカーではないと認めて、その繋がりは絶たれる。彼が自己弁護をすると言い放ち、必死に「ジョーカー」を取り繕おうとするが至らない場面が非常に空虚。例の階段で彼女と再会したとき、歌を止めない彼女に対して彼は「もう歌いたくない」と言う。アーサー≠ジョーカーであることを彼自身が認めるばかりか、「ジョーカー」から逃げようとする(アーサーとハーレイの繋がりが断たれる直前の、裁判所が爆破されてアーサーがジョーカーの格好をした男に連れられる→その男から逃げる場面も非常に象徴的で最高である)。自分がジョーカーではないと認めた彼は「音楽」を拒絶し、アーサー・フレックとしてその階段を降りた。
 まあ、冒頭のアニメーションがほぼテーマを説明しているのだが、ホアキンのやせ細った肉体の実在感があってこそのラストの空虚なジョークが効いている。良い続編だと思った。「アメコミ映画」を一連のシリーズとして捉えたときに、「メインストーリーから外れた一話」みたいな感触を与えてくれる稀有な映画という意味でも好きだ。