otaku8’s diary

映画のこととか

『オッペンハイマー』感想~原子軌道を幻視する~(ネタバレあり)

 まず個人的に、クリストファー・ノーランは「世代」の監督である。ノーランの映画に初めて出会ったのは『バットマン ビギンズ』。それ以降ノーラン映画を追っていて、『ダークナイト ライジング』は人生で一番楽しみな映画だった(公開前にあそこまでネット(親のPC)で情報を漁った映画はない)。少し前(『ダークナイト』以降?)からノーランへの風当たりが強くなってきた。ノーランに対するパブリックイメージは「難解」「シリアス」といったキーワードで表されるだろうが、IMAXカメラを装備しエンタメ大作を手掛けるようになってからは、従来からのパブリックイメージと相まってか、「内容は馬鹿げているのに気取っている」というような評価も一部で見かけるようになった。自分もノーラン映画に対して思うところはあるが、小馬鹿にするようなこの風潮はどうにも受け入れ難かった。そもそもノーラン映画にそのような「高尚さ」は感じない。彼はそもそもブロックバスター映画に憧れがあり、実際に『Space Wars』というストップ・モーションの短編も撮っている(らしい)。

 それでもクリストファー・ノーランが伝記映画を撮ると聞いたときは若干不安もあった。近頃のノーランは(視覚的に)大作志向であったし、ノーラン作品に対する世間一般的な印象が「予測不可能性」であることを思えば、結末まで既に分かっている伝記物を彼がやるというのはやや新しい方向性に見えた。それでも『オッペンハイマー』は予想以上に純ノーラン映画的であったし、彼の集大成的な作品だった。そういう意味でも、2023年映画の第一位にした。大傑作。

 本作は「視ること」がひとつ重要なポイントとなっているように感じる。冒頭、オッペンハイマーは聴聞委員会にて「ケンブリッジにいた頃は、アメリカ時代よりも幸せだったか?」と問われる。彼は「宇宙についてのビジョンに悩まされていた」と答える。宇宙のイメージが映し出されるなか、原子軌道(orbit)の幻視が挿入される(ライトを振り回して物理的に撮影している)。orbitは文字通り軌跡をイメージさせるもので、実際の原子の電子状態を表す軌道(orbital)とは違う。orbitalは電子の統計的な分布を意味する。

 ボーアに勧められて移ったゲッティンゲンでの彼を映したモンタージュでは、そういう自然科学的なイメージと共に彼がグラスをひたすら割る破壊的な挙動、ピカソの絵画に向き合う様子、黒板に数式を書き下していく様子(実体化)が重ねられる。ここはオッペンハイマーという人を端的に表した場面だと思う。意味深に映されるピカソの絵画。ピカソの絵に使われるキュビスムは、

立体派と訳される。それまでの絵画の「視覚のリアリズム」に対して「概念のリアリズム」を主張し、三次元的現実社会の概念を二次元的に翻訳するとともに、絵画を一つの美的存在として結実させることを目的とした

とある(キュビズムとは何? わかりやすく解説 Weblio辞書)。つまり、彼の原子軌道の幻視と同じように、目には見えない実体を表象しているとも考えられる(キュビスムでは様々な角度から見た対象を分解し、再構成するので、オッペンハイマーが持つ多面性も表していると思う)。(めちゃくちゃ雑に言えばorbit⇒orbitalのように)科学者はそれを数式として書き下し、「実体」を持たせていく。そしてその先に待つ破滅的な予兆までがこのモンタージュで示されている。彼が原爆に携わってからは、破壊的なイメージや原爆投下後のスピーチ会場で体感することになる「足踏み」が、強迫観念的に彼の目や耳に焼き付いていく。この演出が良かった。

 「オッペンハイマー」というテーマが非常にノーラン的だと感じているのは、テーマ的に一番なのはそれが「ジレンマ」に溢れたものだからだ。特に、真実(破滅につながる)を直視できないというジレンマは、非常にノーランっぽい。彼の作品には虚構/真実の対立がよく現れる。例えば、『メメント』ではラストにレナードは真実を示す写真を燃やす。つまり復讐心の方が真実よりも優先されたことになる。『インソムニア』のアル・パチーノはある種偽りの正義感と真実の間で揺れた。『ダークナイト 』でアルフレッドはレイチェルからの手紙を燃やし、バットマンは冤罪を被る。『インセプション』のラストでは、最近ノーランのコメントが出たが、トーテム(真実)とコブの子供たち(願望)が対比されている。ちなみに、真実と対立する「虚構」は見ればわかるように「感情」に由来することが多い。ノーラン映画は一般的に「ドライ」と思われているかもしれないが、全然そんなことはない。むしろエモーションに支配されていると言ってもいい。本作でも、オッペンハイマーはジレンマに満ちた人物として描かれ、映画自体もそういう対立を含んで構成されている。

 軍服を着たオッペンハイマーはラビから咎められたあと、バットスーツを着るように、軍服を脱ぎ、スーツとハットを身に着け、パイプを手にする。この場面やアインシュタインの使い方には、ノーランがジャンル映画好きだということが現れていると思う。また、オッペンハイマーが馬に跨る瞬間は、彼をカウボーイに見立てているようにも見える。カウボーイ的な主人公を真っすぐに描いた『インターステラー』とは違い、今回はそのような「カッコよさ」やカタルシスは自己否定される。ロスアラモスにあった科学者たちの「プロジェクトX」的高揚感も、原爆完成後に封じ込められていく。

 本作をノーランの集大成だと言ったのは、時系列シャッフルとか女性の幻影とか過去作からの共通項が色々ありながら(一番近いのは『プレステージ』)も、過去作とは違い自省的に「見せない」選択をしているからだ。これまで実物主義に拘りスペクタクルを起こしてきたノーランが、一番のスペクタクルになりそうなトリニティの瞬間を割とサラッと流したところにグッときた。もちろんロスアラモスの科学者や軍人の視線と同期するように美しさと恐怖を見出すこともできる。でもそのスペクタクルは今までのノーラン映画に比べれば控えめになっており、象徴的な瞬間である。

 「見せない」といえば、オッペンハイマーは広島の惨状を見せるスライドから目を背けながら、原爆投下後のスピーチでは被害者の幻影を視る。この演説シーンが強烈。言葉では原爆投下を祝いながら、まるでそれを自分自身に言い聞かせるように周囲の音が消える。あくまでオッペンハイマーの主観として原爆被害が目の前で再生される。ここで顔の皮が剥がれている女性を演じているのは、ノーランの娘である。周囲の歓声が戻るが、泣き叫ぶ人々の様子は惨劇に対する悲鳴のようなものにも重なる。

 アインシュタインによる辛辣な言葉を受け止め、核兵器がもたらす破滅的幻影から逃避するように目を閉じて終わるラストカット。「惨状を見せるべきだ」と言われるが、この「見せない」選択は正しいと思う。原爆投下日の当事者には「投下された側」だけでなく「投下した側」も含まれる。ノーランの言う「この映画はオッペンハイマーの主観を描いている」とは、後者の意味でやはり多分に当事者意識を含んでいる(オッペンハイマーが投下したわけではないが)。「真実=原爆被害」を「虚構=見世物」化せずに、プロメテウスになった科学者のジレンマ(これはオッペンハイマーに限らず科学者一般に当てはまりうる問題)を当事者性をもって描いた、誠意のある作りだったと思う。