otaku8’s diary

映画のこととか

『ジョン・ウィック』と『ノーカントリー』は似ているという話

 『ジョン・ウィック』シリーズは単なる復讐譚だろうか?確かに「復讐」は重要なキーワードであるが、最新作まで観て思ったのは、このシリーズは「機械論、決定論的世界から抜け出したい男の闘争(逃走)劇」だということだ。この意味で、僕の好きな『ノーカントリー』や『悪の法則』と似ているかもと感じた。ここでは、シリーズを『ノーカントリー』と比較しながら見ていく。

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 一作目では、犬の命と車を奪われたジョン(キアヌ・リーブス)が復讐に赴くという話だった。一見、「舐めていた相手が実は」系の痛快復讐譚だが、ここで重要なのは、ジョンが「後戻りできない選択」をしてしまったということだ。本シリーズに「表世界」と「裏世界」があるとすれば、ヨセフ・タラソフ(アルフィー・アレン)が犬と車を奪ったことが起点となって、ジョンは裏世界に戻ってきた。一作目には、世界線を越えることについて言及する場面が多い。例えば、コンチネンタルホテルでのジョンとウィンストン(イアン・マクシェーン)の会話。

ウィンストン「この世界に戻ったのか?」

ジョン「立ち寄っただけだ」

ウィンストン「よく考えたか?骨の髄までとことん考え抜いたか?一度抜けた君が、小指を池の水につけただけで、その指をつかまれて引きずり込まれる」

 裏の世界は歯車のようなシステムであり、一度動かせばもう止められない。このシステムには決定論的な因果があり、実際、最終作のタイトルにもある「コンセクエンス(結果)」というワードが、シリーズ通して登場する。歯車を動かしてきた者(一作目のヨセフや二作目のサンティーノ(リッカルド・スカマルチョ))はその選択の結果として、ジョン・ウィックに殺されたのだ。一作目で事態を収めようとするヨセフに対して父ヴィゴ(ミカエル・ニクヴィスト)が「お前は何も出来ない」と諭したように、その選択をした時点で彼らの運命は定まっていた。他にも、ジョンと関わった人物には因果が巡ってくる様子は徹底して描かれている。

 そう考えれば、ジョン・ウィックそれ自体が彼らに「結果」をもたらす死神のような存在であると同時に、彼自身も歯車の一部として、世界線を超えるという自らの選択の結果から逃れられない存在なのだ。

(そもそも、その世界線を越えるかどうかという選択に、彼の自由意思は本当にあったのだろうか?二作目冒頭でサンティーノが「君は昔のままだ」と言ったように、彼は元来殺し屋であり、裏の世界に戻る以外の選択肢はなかったのかもしれない)

そして、その因果が巡ってくる二作目以降、ジョンは何とかその因果を絶ち、歯車から抜け出そうとする。

 『ノーカントリー』において「結果」をもたらす死神は、シガー(ハビエル・バルデム)だった。モス(ジョシュ・ブローリン)は、麻薬取引現場から金を盗んだという選択の結果、シガーに狙われることになる。比べてみると、ジョン・ウィックはシガーとモス、両者を合わせたような人物だとわかる。さらに、『ノーカントリー』のもう一人の主役である、前時代を象徴する保安官ベル(トミー・リー・ジョーンズ)もジョン・ウィックに重ねることができる。ジョンは最強とはいえ、あくまでも引退した殺し屋であり、前時代的な存在であることはシリーズ通して言及されている。例えば一作目での支配人との会話。

ウィンストン「君は殴られる方ではないはずだが」

ジョン「腕が落ちた」

三作目でのゼロ(マーク・ダカスコス)の弟子らとの戦闘シーン。

弟子1「動きが遅い」

弟子2「五年引退していたからな」

また、ジョン・ウィックの戦闘スタイルはスタイリッシュに見えてかなり泥臭い。ボロボロになりながらも、新たなる刺客達に必死に食らいついている印象だ(この意味で、批判されることもある、キアヌのアクションの"遅さ"は解釈一致)。

 このような点で、ジョン・ウィックは『ノーカントリー』におけるシガー、モス、ベル三者を同時に体現している存在に見える。

 『ノーカントリー』原作者コーマック・マッカーシー脚本の『悪の法則』で、窮地に追い込まれた主人公(マイケル・ファスベンダー)はメキシコの有力者へフェ(ルーベン・ブラデス)に助けを求めるが、へフェは「お前は自分が十字路に立っていると思っているが、選択はとっくの昔に行われている。人生を取り戻すことはできない」と諭す。『ジョン・ウィック』シリーズはそういう状況下で、それでも彼が人生を取り戻すために闘争(逃走)する物語だと言える。

 他にも『ノーカントリー』との共通点があるのでいくつか書いておく。

 三作目では、ローレンス・フィッシュバーン演じるキングに対して裁定人が「自分が外側の世界にいると思わないで」と言う。キングは世界を俯瞰しているつもりだが、彼もまた歯車の一部に過ぎないと言っているのだ。ここは、『ノーカントリー』でのカーソン・ウェルズ(ウディ・ハレルソン)や『悪の法則』でのウェストリー(ブラッド・ピット)の存在を思い出させる。彼らは世界を理解していると豪語するが、理解していないばかりか歯車の一部に過ぎない存在である。

 一作目と二作目では狩る側だったジョンが、三作目と四作目では狩られる側であるというのも、いかにも『ノーカントリー』的だ。『ノーカントリー』では、モスがガゼルを狙う場面が象徴するように、狩る/狩られる関係性の逆転が示唆されていた。