otaku8’s diary

映画のこととか

『ワンダーウーマン1984』感想(ネタバレあり)

www.imdb.com

 『ワンダーウーマン1984』を好きな理由を書いていきます(深い考察や解説は書きません)。Twitterなどを見る限り賛否両論という感じですが個人的な印象としては欠点は分かるが…好きにならずにはいられない

 

ポスト『スーパーマン』

 ポスト『スーパーマン』映画とは?人によって様々な意見があると思いますが、個人的に真っ先に思い浮かぶのはサム・ライミ版『スパイダーマン』シリーズであり、今シリーズには人助けの描写が非常に多い。ヴィランを倒すヒーローも良いが、(見知らぬ)誰かの命を救うという普遍的善行こそがスーパーヒーローの本質の一つではないか?現在、多くのアメコミ映画が作られているが、人命救助を正面から描いた作品は少ない。パティ・ジェンキンス監督は前作の時からリチャード・ドナーによる『スーパーマン』をリスペクトしていると公言している。『スーパーマン』といえば初めて市民の前にスーパーマンが姿を現す場面が非常に印象的。どこからともなく颯爽と現れ、空を飛び、高所から落ちかけたロイスを救いヘリを片手で持ち上げる。『ワンダーウーマン1984』でもスーパーヒーローの初登場は人助けから始まるところに監督のヒーロー映画観が垣間見える。その後も幾度も人命救助が描かれるので非常に嬉しかった(ホワイトハウスの戦闘場面で、はじき飛ばされたボディーガードを衝撃を和らげるために椅子に座らせてやるところやエジプトのシーンで「ブレーキは効いている」とわざわざ教えてあげるところなども細かくて良い)。人命救助とは違うが、特に今回はヴィランに対しても「救う」という行いを施しているのが更に良い(『スパイダーマン2』でもそうでした)。あと、最後の最後、TVドラマ版ワンダーウーマンことリンダ・カーターのアステリア役でのカメオ出演も敢えて人助けの場面に設定していて「分かってるな〜」と思わず微笑んでしまう。しかも「いつもこうやって人助けをやってきた」なんて台詞を言うのだから好きになるしかない最高のリスペクト(直後のリンダ・カーターのクレジットがちょっと大きいのも最高)。

 

otaku8.hatenablog.com

 

 パティ・ジェンキンス監督の長編デビュー作『モンスター』は実在の連続殺人犯アイリーン・ウォーノスについての物語。娼婦である彼女はバーで出会ったセルビーと恋に落ちる。愛を信じて突き進む彼女だが現実はそう甘くない。「愛を信じる」と言えば前作の『ワンダーウーマン』のテーマでもあった。『モンスター』とは対照的に『ワンダーウーマン』では綺麗事すぎやしないかと思ってしまうほど「愛こそが世界を救うことが出来る」と高らかに宣言されていた。でもいいのだ。『ワンダーウーマン1984』のインタビューで監督は次のように述べている。「スーパーヒーローは私たちの夢であり理想だ」。スーパーヒーロー映画は「リアル」である必要はない、「理想」を提示してくれるもの。まさにドナー版『スーパーマン』やライミ版『スパイダーマン』の精神だ(リアル志向だと考えられがちな『ダークナイト』三部作もそうだと思っている)。監督はちゃんとそれを認識している。今作では願いを取り消すことで世界は元通りになった。ご都合主義過ぎではないかと批判されるだろうが、構わない。これは『スーパーマン』で時間を戻すために自転を反転させたあの展開と似ており、やり過ぎとも言えるスーパーヒーロー映画が持つ「魔法」に心地良さすら感じてしまう。つまり初めからリアルを重視する作品ではない。そういう視点でみれば、懐かしいDCTVシリーズや『コマンドー 』でのノスタルジーを感じさせてくれるモールでのオーバーな場面も『スーパーマン』での美しいランデブーを思わせる透明ジェットでの独立記念日の夜も、そもそもあの石を中心にした作品全体の荒唐無稽な展開も許容できるのではないだろうか(少なくとも自分は好きになったが、そうでない人も沢山いるだろう)。

 

filmarks.com

 本作では人々が持つ欲望に焦点が当てられており、その欲望は「嘘」によって現実化される。メインキャラクターのダイアナ、バーバラ、マックスも自らの欲望を叶えることになる。後者二人は欲望に抗えずにヴィランと化す。一方でダイアナはスティーブに再度永遠の別れを告げることで真のヒーローに返り咲く。「恋人の方が世界より大切なのか?」とツッコミたくなるかもしれないが、スティーブは彼女にとって単なる恋人ではない。何十年にもわたるダイアナの精神的孤独の大きな要因でもある。虚構だろうとやっと得た幸せを手放すというのは非常に辛いだろう(しかも本人の目の前で)。このような「「選択」がヒーローをヒーローたらしめる」という流れもちゃんと踏襲されていて良かった。皇帝の居間でライトセーバーを放棄したルーク・スカイウォーカーや力を人のために使おうと決断したピーター・パーカーもそうだ。「選択」は精神的な強さに起因するものであり、フィジカルではないが故にヒーローとヴィランの決定的な分かれ目になり得る。その意味では、今作でアクションよりも各キャラクターの精神的な物語に重点が置かれているのは良かったと思う。因みに、ダイアナがスティーブに別れを告げ、走り出していく場面はあまりにも感動的。今作では映画全体として「空を飛ぶ」というイメージとスティーブが強く結びつけられている。実体としてのスティーブはいなくても、ダイアナが飛行能力を獲得した瞬間にスティーブはいつもダイアナの中にいることが示唆される。このスティーブとの別れからの飛行シーンは彼女の感情と能力がリンクしたカタルシス溢れていて最高にエモーショナル。勿論、やっと飛ぶワンダーウーマンが見られた!という喜びもある。ヴィランについても好きになることが出来た。トランプっぽいと言われるマクスウェルロードだが、それ以上に個人的には一人のキャラクターとして魅力的に感じた。まるで世界の覇者にならんとする彼に対してダイアナはヘスティアの縄を彼の足に巻き付け、彼を通して世界中の人々に語りかける(ダイアナがスティーブにアステリアのイメージを見せる場面が伏線)。単に力が強いからヒーローなのではない、という着地も非常に良かった。「虚構」を乗り越えたダイアナによる「真実」の言葉。マックスに対しても「現実から目を背けている」と諭し、その結果として彼の子供が苦しんでいるビジョンを見せる(BvSのBeautiful Lieが流れる!)。彼もダイアナ同様、選択を迫られるのだ。このメッセージ性自体については賛否あるかもしれないが、敵を倒して終わりではない、人々(ヴィラン含めて)の内面に希望をもたらしてくれる存在としてのヒーロー像(精神性)を描いてくれて非常に嬉しい。一方でバーバラにそのような葛藤は無く、最後まで突き進むので燃焼不足な人もいるかもしれない(ダイアナが彼女を説得した時の"Never!"という台詞が印象的。願いを取り消さずチーターとして生きていくというのも彼女の選択と捉えられるのか?)。ダイアナの完璧さを目の当たりにしたバーバラが「ダイアナのように強くなりたい」と願いながらいつの間にか彼女とは対極的な存在へ加速度的に変貌していく様(クリステン・ウィグの熱演!)は先程の理想としてのヒーロー像を逆手に取ったようで面白い。ビジュアルも良かった。

 

 他にもポスト『スーパーマン』らしい要素といえばやはりワンダーウーマン役のガル・ガドット。『スーパーマン』でのクリストファー・リーヴスはその存在だけで「まさにスーパーマンだ!」と納得してしまう説得力があったが、ガルも同様の魅力がある。ハンス・ジマーによる劇伴も良かった。特にセミッシラの壮観と共にナレーションが流れる冒頭にかかるThemysciraは立ち位置としては『スーパーマン』冒頭におけるクリプトンのテーマのようだ。

 ポスト『スーパーマン』映画だから完璧な映画なのか?と言われれば話は別。上手くいっていないところも多く見受けられ、CGやアクションの不自然さ(狙ってやっているところもあるかもしれない)やスティーブ復活に関する倫理的問題など引っかかる点も勿論ある。でも少なくとも自分は今作の中に『スーパーマン』に存在した「魔法」のようなものを感じたし、スーパーヒーロー映画の本質的精神を感じることが出来たので、好きな作品であることに変わりはない。とてもエモーショナルだった。

 今作ではユニバース要素は殆ど無く、前作以外との他作品との繋がりが意識されないことも不評の一因だと思うが、個人的にはこの方向性はとても好き。繋がりを常に考えた作品作りとなればユニバース内の整合性に引っ張られて単独作品で本当にやりたいことが出来なくなるからだ(その点、DC映画に導入されていくだろうマルチバースの概念は単独作品の独立性と集合作品のお祭り感を両立可能にしてくれるので便利)。勿論、DCユニバースの実写化を待ち望んでいた身からすればユニバースは歓迎だが、何でもかんでも絡めて欲しくはない。DCEUは「整合性は程々に」な精神で進んでいって欲しいと思う。