otaku8’s diary

映画のこととか

『ザ・フラッシュ』感想〜DC映画史を駆け抜く〜(ネタバレあり)

 『ザ・フラッシュ』の感想です。期待よりは下回ったが好きな映画である…と言いたいが、文句もある。

 良かったところはキャラクター同士のフィジカルなやりとり。核となるバリーと母の場面は良かったので、そこは安心した。世界のために母を死なせるという着地は原案『フラッシュポイント』の流れを踏襲したもので、予想の範囲内。トマト缶の件は、位置を変えたことについては賛否が分かれるだろうが、特にエモーショナルで良かった。既に言われているように『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(以下『スパイダーバース』)とは逆の着地であり傑作『ターミネーター3』(傑作)を思い出させる運命論的な話だ。自分は運命論的な話が好きだ。『スパイダーバース』の「スパイダーマン史」を踏まえながら、そこに課せられた運命に抗おうとする話も良かったが。この着地は原案通りの流れで意外性はないが、『スパイダーバース』が「スパイダーマン史」を踏まえていたように、こちらは「DC映画史」を踏まえたものだった。

 マルチバースにより、事前の予想通り色々なサプライズゲストが登場した。特に注目したいのはジョージ・リーヴスとニコラス・ケイジのスーパーマン、ヘレン・スレイターのスーパーガール、ジョージ・クルーニーのブルース・ウェインだ。ジョージ・リーヴスは『スーパーマンの冒険』でスーパーマンを演じており、その後、射殺遺体で見つかった(ベン・アフレックの『ハリウッド・ランド』で映画化済み)。ニコラス・ケイジはティム・バートンの『Superman Lives』でスーパーマンをやる予定だったが、頓挫した。ヘレン・スレイターは豪華キャストの『スーパーガール』での主演だが、評価も興行も微妙に終わった。ジョージ・クルーニーは『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』の主演だが、あまりに映画が嫌われたからか、ジョエル・シュマッカー監督が謝罪していたのが記憶に新しい。「ただ、楽しんで欲しかった」と謝る姿が、とても気の毒に感じられてしまった。

 いずれのキャラクター(俳優)もDC映画史の中で負のイメージに隠されてきた存在である。『ザ・フラッシュ』では、そうした過去は忘れるべきものではなく、それらの上に現在のDC映画があるのであって、そこから更にDCUに繋がっていくのだと言っているようである(ならジョージ・ミラー版『ジャスティス・リーグ』も!と思ってしまうが)。負のイメージといえば現行のDCEUもそうで、かなり右往左往してきたシリーズ。その被害者ともいえるベン・アフレック演じるブルースとバリーのやりとりが心に残る。ベン・アフレックといえば、家にバットケイブの入り口を作ってしまうバットマンファンで、バットマン単独作の監督もやろうとしていた(デスストロークとの一騎打ちが見たかった!)。その彼がバットマンを演じていく中で次第にその意欲がなくなっていき、『ジャスティス・リーグ』(2017)に至っては「最悪の経験」と言ってしまう。一バットマンファンだった人間をここまで蝕んでしまうフランチャイズは不健全だ。『バットマン vs スーパーマン』では筋肉隆々で、まるでアニメイテッド版のブルース・ウェインをそのまま実写にトレースしたかのような姿だったベン・アフレックは明らかに当時よりも細く、勝手に悲哀を感じてしまう。ブルースとバリーの会話で、過去を変えようとするバリーに対して「過去があるから現在の自分がいる」と言うブルース。前半のここがベン・アフレック最後の場面である。「アフレックを冒頭しか出さないのはどうなんだ」という批判もあるが、ベン・アフレック自身に重ねてしまうこの幕引きには、良い悪い以前にグッときてしまった。

 「過去があるから現在や未来があるのであって、だからこそ前に進め」という話の核はDC映画史を追ってきた身からすると、「『フラッシュポイント』と同じ着地」以上に思うところがあった。

 実は不安要素だったマイケル・キートンも良かった。アクションがスタイリッシュ過ぎるという批判があるが、個人的には許容範囲内。確かにスタイリッシュではあるが、基本的にアナログであり、その上でブラッシュアップされており、好印象。

 キャラクター同士のやりとりが良いと言ったが、キャラクターの扱いは全体的に良くない。マイケル・シャノンが言うように、各キャラクターをアクションフィギュアとして動かしているような印象がある。ゾッドの扱いはまさにこんな感じだ。これはマルチバースものではある程度仕方がないことだとは思う。そもそも『フラッシュポイント』でもそういう感覚はあった。ただ、あちらは膨大なキャラクターが登場する作品であり、さほど気にならない。一方で『ザ・フラッシュ』のキャラクターは少なく、そのうちの半数の物語が薄ければ、どうしても気になってしまう。特にスーパーガールとバットマン。スーパーガール役のサッシャ・カジェは非常に魅力的で、この俳優を見出しただけでも素晴らしいが、スーパーガール自体の物語は薄い。フラッシュたちに助けられ、自らも「希望」を掲げる者として立ち上がるという展開自体は良いのだが、この文面以上の中身がない。つまり、事務的に「希望」としてフラッシュたちの手助けをする存在にしか見えない。『フラッシュポイント』でのスーパーマン(本作でのスーパーガール的立ち位置)もまあそんな感じではあるが、やはりキャラクターが少ない実写映画となったとき、その記号的扱いは気になってしまう。ついでに、記号的な「希望の象徴」は『マン・オブ・スティール』の問題点でもあると思っている。マイケル・キートンのバットマンに関しては、その存在自体は予想以上に素晴らしかったのだが、フラッシュ/バットマンの物語という意味では、所々グッとくる瞬間はあるのだが、残念ながらやはり薄く、『フラッシュポイント』に劣る。『フラッシュポイント』では、ブルースが殺され父トーマスがバットマンになった世界にバリーが行く。ブルース版バットマン以上に世界に絶望している感のあるトーマス版バットマンが、フラッシュを介して別ユニバースで生きるブルースを知り、「生」を取り戻していく物語に感動がある。つまり、バリーとブルースの物語はバリーと母の物語と同じく核となる要素だ。だからこそ、『フラッシュポイント』が原作ではないとはいえ、本作ではそれが薄いのは非常に勿体ない。ちなみに、『フラッシュポイント』ではラストに「元のユニバース」にバリーが戻ってから、ブルースとの感動的な場面がある。別にそれをやれとは言わないが、ジョージ・クルーニーが出てきて前歯が落ちるというラストに怒る人がいるのはまあ分かる。先に書いたように、ジョージ・クルーニーはDC映画史の負のイメージに覆われてしまった人であり、彼の登場自体は感慨深いのだが、それもギャグ的に演出されているのでノイズにはなるし、まあそれ以前に「結局歴史改変するんか」と批判する人もいるだろう。

 ジョージ・クルーニーに限らずカメオの面々の登場は、その選定に感慨深くなりながらも、バリーの物語という一番エモーショナルな流れを分断しているようで、やはりノイズに感じてしまうことも事実だ。

 あと、本作、変なところにノイズがある。例えば冒頭の赤ちゃん救出場面。普段から言っているのだが、ヒーロー映画は原則人命救助をやるべきだ。この点、本作も『スパイダーバース』も人命救助を見せ場にしていて大変良かった。ただ、人命救助を任されたフラッシュがまるで人命救助など雑用だと言わんばかりにボヤいたり、赤ちゃんを電子レンジに入れたりする。前者に関していえば、ゾッドのメトロポリス襲来に際して子供一人しか救えなかったというエピソードとの温度差がある。このエピソードについても「あのときは救えなかったが、今回は…」という対比の展開があれば良かったのだが、そこも弱くて不満だ。一応ラストバトルがその対比に当たるが、それならば一般市民を文字通り「救う」展開が欲しかった。能力を手に入れたばかりのもう一人のバリーが調子に乗って街をめちゃくちゃにする場面。これは所謂「大いなる力には大いなる責任が伴う」ことを後に彼が学び、ヒーローとして成長する展開に繋がりそうだが、特に責められはせず、ただのギャグシーンにとどまる。結構な被害だったぞ。他にも、ラストのトマト缶の場面。非常にエモーショナルな場面だが、バリーが未清算の衣類を着用しているのがやはり気になる。バリーが過去に戻った際に通行人の服を「奪う」場面もそうだが、全体的に「ヒーローとしてそれどうなの?」という要素(しかも、それがなくても問題なし)がノイズになっている。これがターミネーターなら何にも気にならないのだが。

 全体的にCGの出来が良くないのもノイズだ。監督は光速を超えるフラッシュに起因する「歪み」を表現したもので意図的だと言っていたが、納得はしない。まあ、本作がDC映画史を踏まえたものなら、初期DC映画(例えば『スーパーマンⅣ』)のチープさを再現したものだと勝手に解釈することもできなくはないが。

 *「ヒーローであるフラッシュが意図的に能力を得るのはどうなんだ」という批判があって、この展開も『フラッシュポイント』をなぞったものではあるが、その視点は自分にはなくてなるほどと思った。確かに、スパイダーマンが分かりやすい例だと思うが、能力が同等でも、そのモチベーションの違いがヒーロー/ヴィランの境になる(だから両者は鏡像関係にある)。まあ、今回はヒーローが初めて能力を得るわけではない特殊ケースではあるが。これを見て思い出したのは『スーパーマンⅡ』(特にリチャード・ドナーCUT版)だ。一度はロイスとの時間を選び能力を失ったクラークが、ゾッドの侵略に際して能力を取り戻すためにジョー・エルの元に赴く。クラークは力を取り戻すが、ジョーは消えてしまう。個人の幸せと「能力者」としての責務を両立することはできず、必ず代償が伴う(この「お決まり」に抗おうとしているのが『スパイダーバース』)。バリーは個人の幸せのために過去を改変した結果、ゾッドによる世界滅亡を招いてしまうわけだが、その代償に対する責任として死を覚悟して能力を得ようとしたのであり、そこにヒーローとしてのバリーを見出せるのではないか。