otaku8’s diary

映画のこととか

『NOPE/ノープ』感想(ネタバレあり)

 いまさらながら『NOPE/ノープ』を観た。鑑賞が遅れた理由は、評判によるとこの映画は「IMAX案件」らしいのだが、なかなか都合が合わなかったからだ。確かに、できればIMAXで観てほしい作品だった。もっといえば前の方の席が良いと思う。観るのが遅かったので、もう散々言われているだろうけど思うことを書いていく。

 「スピルバーグ映画的」だと事前にいわれていたが、『未知との遭遇』よりも『ジョーズ』で、根底には特に白人・男性至上主義の強かった西部劇というジャンルを持ち込んできたのが良かった。また、本作は「見る/見られる」関係をテーマにしている。あの飛行生命体は「観客」を象徴していて、地上の人間は「見世物」として文字通り「消費」されている。映画は元々見世物としての側面が強かった。記憶違いだったら申し訳ないが、飛行体の内部から覗くようにしてエドワード・マイブリッジの黒人騎手の映像が写されるシーンがあったように思う。あれはまさに、映画の原型ともいえる「覗き箱」を覗いているような表現だ。見世物として消費されるだけで実際は歴史から虐げられてきた存在を表象する主人公兄妹が、逆にこちらを「見る」ことによってその歴史に対抗していく話だった。また、地上の人間たちのあいだにも「見る/見られる」関係性が表現されている。特にスティーブン・ユアン演じる元子役リッキーは主人公と対比される存在としてインパクトを残していた。子役時代に出演していた『ゴーディーズ・ホーム』でのチンパンジーのゴーディーによる惨劇を生き残ったリッキー。子役であるリッキーはゴーディーと共に見世物として消費される立場だ。リッキーたち俳優もまたゴーディーを消費しているともいえそうだが、大きな視点で見れば、両者はエンタメのなかで同等に見せ物とされている。ただ、その彼が机の下に隠れて惨劇を目にする場面では消費者としてのリッキーが明確化する。視野の制限された机の下から惨劇を観る行為は、まさに観客が映画(見せ物)を観ているのと同じような状況だ。映画ではそこに映っている事象だけを観ることができ、その外側については想像するしかない。カメラはリッキーと同じく机の下からのみ惨劇を映す。観客と同じように、彼も見えないところで無惨にやられる俳優たちを想像したのかもしれない。彼はその見せ物のなかに「直立する靴」を見つける。これが「最悪の奇跡」として、『2001年宇宙の旅』のモノリス的に、彼の記憶に残り、「見る側」へと移っていく(ように本人は思っているのかもしれないが、彼もまた飛行体のための見せ物だった)。本作にはもう一つの「見る」があって、かつて父がやっていた、ラストで主人公と妹がお互いに向ける「お前を見守っているぞ」という仕草。搾取としての「見る」が強調されてきたからこそ、そうではない「見る」に感動する。

 そんなわけで、「見る/見られる」「消費する/消費される」関係を軸に色々なメタファーが盛り込んでありよく出来ているのだが、個人的には少し推進力が弱い気もした。例えば、本作は「動物/人間」の映画でもあり、その側面が「視線の映画」「メディアの映画」としての鋭さを邪魔してしまっている感じもある。また、事前の予想では、飛行物体については謎のまま後半まで引っ張るのかと思っていたが、割とあっさりどんな存在か提示される。特に、リッキーのショーに飛行物体が現れる場面。見上げながら砂埃に飲まれていくリッキーでシークエンスが終わるのかと思いきや、食べられた人々が食道に押し込まれる様子が律儀に描かれる。飛行物体にどんな背景があるのかは分からないけれど、『ジョーズ』のサメが恐ろしい捕食者であることが分かるように、それが映画内でどんな存在であるのかがこの場面で明確になる。だからそれ以降は活劇的な見せ場やテーマ的な面白さはあるけれども、前半や他のジョーダン・ピール監督作品に感じるような不気味さや展開の読めなさは消え失せてしまった。

 結果的には期待値を越えなかったが、面白かった。噛めば噛むほど味わい深い作品だと思う。