otaku8’s diary

映画のこととか

映画館の記憶①(名古屋編)

 どうでも良い自分語りです。

 名古屋出身である私は、小学生の頃に河合塾千種校に通っていた。そこで算数を教えていた講師の一人が倉本徹氏である。自分の記憶では、倉本氏の授業は分かりやすく、時折り下ネタを交えながら(本当はこういうのは良くないのかもしれないが、他にも下ネタを語る講師はいた。理科の白衣をいつも着た先生とか)面白い授業を展開していた。大変お世話になった。

 あるとき、氏が口溢したのか親が言ったのかは覚えていないが、氏が講師業の傍ら、映画館を運営しているという話を聞いた。そして、その映画館はどうも今池(河合塾千種校からそう遠くない)付近にあるらしいと分かった。

 早速、その劇場を特定するため、親を連れて今池を探索した。何故か分からないが、私は劇場が地下にあると確信していた(甚だしい勘違いだったが)ため、たしか閑散とした異世界感溢れた地下街を巡った。そして、どうやら今池の地下には映画館があるらしい!ことが分かった。

 ご存知の方もいるかもしれないが、この「今池の地下にある劇場」というのが今池地下劇場である。今池地下劇場は所謂ピンク映画館であり、2017年に閉館した。私がこの劇場に到達して気まずい思いをしたかは定かではないが、とりあえず倉本氏が運営する映画館がここではないことは後年になって知った。

 「倉本氏が運営する映画館」というのは、実は名古屋シネマテークだった。運営と言ったが、倉本氏は名古屋シネマテークの創立者でありながら劇場からの給料は受け取っていないらしい。それほどまでに経営が苦しい状況だったのだろう。

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 経営状態の悪化から名古屋シネマテークは2024年に閉館したが、幸いにも同地にナゴヤキネマ・ノイが開館した。見た目は名古屋シネマテーク時代を踏襲しており、嬉しい。

ナゴヤキネマ・ノイで『ヘルレイザー』を観た

 かつて今池は「映画の街」だったらしい。私は生まれてから大学院入学のために関東に渡る直前まで、多くの時間を名古屋で過ごしたのにもかかわらず、シネコンにばかり通っていた。時を経てから後悔することが多い。

 

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(棚卸)2025年映画ベスト10

雑記(前置き)

 明けましておめでとうございます。2025年の新作ベスト10を書きます。なお、bestと言いつつ、あくまでfavoriteな視点で選んでいます。ちなみに、これに対する良い表現が、ヨアキム・トリアーの新作『センチメンタル・バリュー』というタイトルに使われていたので、今後はsentimental valueの視点という言い訳をしていこうと思います。

 2025年は全鑑賞本数が220本、新作は135本でした。2023年から居住地を首都圏から九州の南端に移していますが、移住後からの映画鑑賞本数の推移が図1になります。どうでもいいのですが、生活環境と結び付けることで、何かしら相関も見えてくるかもしれないので、記録は続けていきます。

図1. 2023年以降の映画鑑賞本数

 ちなみに、「新作」という語の定義やベスト10への選定方法が自分の中で年々変わっています。例えば、2022年は映画祭や試写で観た作品を区別し、ある程度明確に基準を設定して点数化して決めました。一方、2023年は大方フィーリングで決めました。

 

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2024年については、記事にするのをサボってしまいましたが、X(以後、Twitterと呼称する)では投稿しています。

 

2025年映画ベスト10

 2025年映画のベスト10が以下です。2025年映画における立ち位置とか、そういうものは一旦置いておいて選んでいます(それがsentimental valueに直結している作品もありますが)。また、鑑賞形態は劇場、試写(今年はほぼない)、映画祭、サブスク(日本・海外)ですが、それらを区分けせずに、「私が2025年に観た新作(と私が決めつけた映画)」のなかから選出しました。

・『リアル・ペイン〜心の旅〜』

 2024年のベスト10に『僕らの世界が交わるまで』を入れていることから分かるように、自分はジェシー・アイゼンバーグの監督作と相性が良いのかもしれない。好みの違いはあれど、彼の手腕の確かさはこの2作で明らかだと思う。ホロコーストは表象不可能性を有していますが、それに対して各キャラクターの「痛み」と共鳴させることで、ホロコーストのみならずあらゆる歴史的悲劇(ガザでの出来事も?)を射程内に収めることに成功していて、且つウィットに富んで面白い作品なのだから凄い。

・『ニッケル・ボーイズ』

 POVとモンタージュによる実験的試みが頭でっかちになっていないというか。一人称での語りにここまで親密さを持たせられること、その親密な視点を対照的な2人で切り替えながら当事者としての歴史を綴っていく手法が素晴らしいです。

・『ドマーニ! 愛のことづて』

 SNSでの絶賛評がよく目に入ってきたた作品だが、思ったよりも観た人が少なそうなのが残念。エンターテインメントとしては万人におすすめできる、面白くて観やすい作りであり、女性の権利運動という意味では、今年の『女性の休日』とも通ずる作品でした。

・『聖なるイチジクの種』

 窓やSNSから覗かれる現実と対比されるように、一家の物語に社会の構図を当てはめてフィクションとして見事に昇華。必ずしも悪とは言えない個人が結局はその構図における悪しき役割を担ってしまう終盤は、娯楽作としての見せ場でありながら、その悲痛さを帯びていました。

・『か「」く「」し「」ご「」と「』

 他者を理解できると自負しているのに自己は分からない、という普遍的な事象を鮮烈に描いています。『少女は卒業しない』から踏み込んで、個々で異なる「能力」による一方通行な視線が他者を繋ぎ止め、関係性を築いていく様子を斬新なビジュアライゼーションで表現していたのも良かったです。

・『スーパーマン』

 これは良かった。スーパーマンが紛争に介入することへの問答、ウクライナやガザ、(さらにはバビ・ヤールも)を想起する描写も、スーパーマンを今やるなら避けられないもの。今「スーパーマン」の映画をやるなら、現実を表象するような事象に彼は向き合わざるを得ません。現実問題に対して甘いと批判される結論も、「いや、スーパーマン映画だからこそ」と描き切る力がありました。コレンスウェット/ブロスナハンの初々しいケミストリーも素晴らしかったです。

・『ストレンジ・ダーリン』

 ネタバレありの感想は以下の記事に書きました。時系列シャッフルによる大胆な構成よりも、キャラクターの背景を推察させる丁寧な演出と西部劇へのアンチテーゼとも取れるラストに痺れた。監督・脚本のJ・T・モルナーは『The Long Walk』の脚本も手掛けている注目株。

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・『The Life of Chuck』(日本公開未定)

 スティーブン・キング原作でマイク・フラナガンの新作。本作を雑に言えば「人生讃歌」である。2025年には人生讃歌的な作品がいくらか公開されましたが、その類に関しては、自分は本作で十分満足してしまいました。中盤に2度繰り返されるダンスシーンは役者の身体性を出来るだけ魅せるアプローチで、"有限だけど無限"な人生において確かに"私たち"の軌跡が垣間見えた瞬間として素晴らしかったです。

・『旅と日々』

 特に大きな事件が起こるわけでもないのに、超面白かったです。同時に、三宅監督つながりで、2022年の映画批評月間で公開された『ブリュノ・レダル、ある殺人犯の告白』が脳裏をちらつきました(三宅監督がアフタートークで登壇した)。その観点での感想を以下に書き残しました。

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・『ウォーフェア 戦地最前線』

 アレックス・ガーランド映画のなかで個人的ベスト。生々しくリアルながら、前半/後半の緩急の付け方や冒頭/結末の対比など、構造としては美しい作品。何よりも、運動の主体は米国兵だけれど、真の主人公は、その軍事活動の中で軽視された空間や人なのかもしれないという見せ方が巧かったです。

 

 

 

『旅と日々』感想~言葉の檻を崩す旅~(ネタバレあり)

 三宅唱監督の最新作『旅と日々』を観た。個人的には超面白かった。特に大きな事件が起こるわけでもないのに、ただ面白いのだ。同時に、三宅監督つながりで、2022年の映画批評月間で公開された『ブリュノ・レダル、ある殺人犯の告白』が脳裏をちらついた(三宅監督がアフタートークで登壇した)ので、その視点で殴り書きしていく。

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 『ブリュノ・レダル』はモノローグ映画の傑作である。本作では、殺人犯であるレダル(ディミトリ・ドレ)が回顧録を書いていき、それに沿ったナレーションで映像が展開される。つまり、ひたすら説明的であるわけだが、その「書く」という行為によって非常に主観的な映画となっていることが大きな特徴である(自慰的といった方が良い)。

 一方で、『旅と日々』では、主人公(シム・ウンジョン)である脚本家が筆を走らせるカットとその本を映像化した映画内映画のカットの反復で始まる。そして、ある印象的なセリフ(大意訳)がある。

「日常とは言葉に追いつかれること。旅とは言葉から離れること」

 我々は日常生活において、世界を言葉で説明する。しかし、見知らぬ土地に行くとき、見聞きした事象が言葉で翻訳される前に流れ込む。しかし、その土地にも慣れてくると、次第に言葉で説明できるようになる。

 ソシュール的には、「言葉→モノ」、つまり言葉によって世界が規定されるといえる。言葉が世界を規定するという観点では、『ブリュノ・レダル』が言葉によって主観的な世界を創り出していたことも、これに当てはまる。『旅と日々』で主人公は脚本づくりに行き詰っている。前半に展開される映画内映画の上映会で、彼女は「自分はあまり脚本が上手くないなと思いました」と述べる。つまり、本作の前半で彼女が言葉によってコントロールしようとした世界は、映像に翻訳され、客体化されることで、それは理想とはかけ離れてしまう。

 その考えに則れば、主人公は旅に出ることで一度「言葉の檻」=規律化された世界を崩し、創造性を取り戻そうとしているのだろう。劇中、主人公は「よく喋るやつだな」と宿主(堤真一)にぼやかれる。確かに主人公は何気によく喋る。つまり、「言葉の檻」を解体しながらも、言葉を手放せない彼女は同時にそれを組み立てようとするのだ。

『旅と日々』を観て、「言葉にはできないけど感じるもの」があるとすれば、それはまさに、本作が映画という旅に連れ出してくれていることと同義だと思う。

『ジュラシック・ワールド/復活の大地』感想〜「生」を取り戻す戦いとクライトンへの回答(ネタバレあり)

 ギャレス・エドワーズ『ジュラシック・ワールド/復活の大地』(以下、『復活の大地』)を観た。最新作『復活の大地』を語る前に、シリーズの原点に少し触れておきたい。

 

『ジュラシック・パーク』(1993)

『ジュラシック・パーク』は言わずもがな名作である。監督がスピルバーグなのだから演出が冴えているのは当然として、「ジュラシックシリーズ」として傑出している点として次のことを挙げる。まず、何と言っても本作の製作・公開自体が「恐竜を蘇らせ、人々に驚きを与えること」と完全に重なるということである。VFXによって恐竜をスクリーン上で蘇らせたという驚きは、劇中でグラント博士らが初めてブラキオサウルスを見たときの彼らの眼差しとリンクしている。また、もう一つの優れている点は原作からのアダプテーションだろう。娯楽映画として完成度を上げるために原作をシェイビングしつつ、著者マイケル・クライトンが強く主張していた「人類の傲慢さ」についての批評も取り込んでいる。特に、ラストの素晴らしさについては以下で述べた。簡単に言うと、「創った者」「創られた者」「創られていない者」を対比させ、端的かつ映像的に原作のエッセンスを示している。

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『復活の大地』

「生きた恐竜」の再生

 さて、今回の『復活の大地』であるが、小骨が引っかかる箇所はあるが、結構良かった。これで酷評されるのは、ギャレスにとってかなり酷なことだと思う。

 グラント博士ら=観客が生きたブラキオサウルスを初めて目撃して以来、ジュラックシリーズを語る上で、映像技術史との関わりを外すことはできない。1993年の『ジュラシック・パーク』でCGが導入されたのは、リアルな恐竜を描くにあたり技術的制約があったためである。結果的にアニマトロニクスとCGの組み合わせ(物理的なリアリティ×デジタル技術)によって「生きた恐竜」を再生することに成功する。この歴史的瞬間を、映画のキャラクターと同時に目撃したのだ。2015年の『ジュラシック・ワールド』では、テクノロジーが発展し、恐竜はテーマパークで展示され、人々に消費される存在となる。2015年と言えば、既にVFXが大きく進歩し、観客がCGによる表現に見慣れている頃である。恐竜=未知が既知となり、彼らはジュラシック・ワールドの来場者と同じように「生きた恐竜」を消費していく。一方で、そうした消費社会の中でビジネスマンは顧客の(黙示の)要求を満たそうとする。その結果、誕生したのがインドミナス・レックスやインドミナス・ラプトルである。2025年の『復活の大地』では、その成れの果ての姿としてD-REXが登場する。「できるかどうか」だけを追求したようなその姿は、もはや恐竜からはかけ離れている。また、CGを使えば何でも表現できる時代においては、観客もその姿に驚くことはない。劇中の人々が恐竜への関心を失ったのと同じように、観客もCGによる創造(広く言えば映画体験)への興味が薄れているのだ。

 そうした状況下で、本作は再び観客のスクリーンへの興味を取り戻そうとする。本作の恐竜の多くはCGによって描かれている。一方で、35mmフィルム撮影とロケ撮影によって往年のアドベンチャー映画(一作目を含む)の質感と映画内事象の実在感を高めている。その組み合わせ(物理的なリアリティ×最新デジタル技術)によって、シリーズが追求してきた「生きた恐竜」の再生を新しい体験として提供しているのだ。本作では『ジュラシック・パーク』のブラキオサウルスのシーンと類似する場面として、キャラクター達がティタノサウルスを目撃する瞬間が用意されている。このシーンは本作の中で最も美しい場面である。状況は一作目のシーンとほぼ同じであるが、それをギャレス・エドワーズ十八番の構図に落とし込んでおり、他では見たことのないような新鮮味のある映像になっている。長い尾を宙に舞わせながら、2頭のつがいが愛を交わす。今の時代だからこそ描ける見せ場である。CGで何でも描くことのできる時代だからこそ、それを駆使してこのような瞬間を創り上げることが必要である。グラント博士の門下生であるヘンリー・ルーミス(ジョナサン・ベイリー)は彼らの交わりに涙する。彼が務める博物館は、人々の恐竜への無関心から経営に苦しんでいる。かつてグラント博士と同期した観客は、「生きた恐竜」が持つ、まだ色褪せていない、人々の眼差しを取り戻せるであろう力強さにグッとくるのだ。

「傲慢さ」への抵抗

 テーマ的な側面でも本作は新しい試みを行っていたと思う。マイケル・クライトンの原作では「人間の傲慢さ」について強く批判されている。これまでの映画では、そのテーマに対してシニカルな着地で終わることが多かった。『ジュラシック・パーク』では前述したように、「創った者」は「創られた者」を制御できずに退散する着地であり、『炎の王国』では「創られた者」への責任を全人類が負うという終わり方である。

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 「ではどうすれば良いのか?」という問いかけに対して、『復活の大地』は極めてシンプルに回答している。それは「利己的になりすぎず、他者を想い、助け合うこと」である(話がややこしくなるので、「利己的な遺伝子」の話はしない)。ここで、人間の傲慢さ=利己性に対する利他性と言える。劇中では製薬会社の営業担当マーティン・クレブス(ルパート・フレンド)が利己性を体現する人物として描かれる。一方、本作では、これまでの作品よりも他者のために動くキャラクターが目立つ。何なら、クレブス以外のキャラクターは、あまり自己中心的な言動をしない。皆、他者のために行動を起こす。象徴的なのはゾーラ・ベネット(スカーレット・ヨハンソン)とルーミス博士の対話である。ゾーラは当初は新たな心臓病の薬を特許化し、報酬を貰うことを望んでいたが、どんな立場の人であっても薬を手に入れられるようにするべきという博士の主張によって心が動かされていくのだ。また、一行がD-REXに襲われたとき、彼らを救ったのはダンカン・キンケイド(マハーラシャ・アリ)の利他的な行動があったからである。人間が持つ傲慢さに、人間的な利他性で対抗する。シンプルなのに、シリーズ中、これまでの映画では示されなかった方法である。ちなみに、この人間讃歌的な雰囲気に最初に気がついたのは、第一ミッションの場面である。モササウルスの血液を採取するため、クルーは協力し合う。銃を構えるゾーラをルーミスが支える。無事に採取に成功した瞬間、アレクサンドル・デスプラによる高らかなファンファーレが鳴り響く。この類のカタルシスはこれまで描かれてこなかったものである。

その他良かった点

 他にも良かった点はいくつかある。例えば、先述した「往年のアドベンチャー映画の質感」という意味では、撮り方を含め、やはりスピルバーグリスペクトを感じさせる。また、恐竜があくまで野生動物として描かれており、特にワールドシリーズで顕著だった、彼らのキャラクター化を避け、「役割」から解放された生を魅せているところも良かった。それはD-REXも同様である。D-REXを「悪役」に仕立てて「善の恐竜」と戦わせるというナラティブに走らせないのだ。ただし、その意味でアクイロプスの幼体ドロレスは浮いていたし、 イザベラ・デルガド(オードリナ・ミランダ)との物語は明確に良くないと思う。

良くなかったところ

 イザベラとドロレスの関係は、この「利他性」というテーマから逸脱してしまっている。断っておくと、個人的には本作のキャラクター達は魅力的に映っており、その点では批判するつもりはない。問題は、イザベラがドロレスを餌付けし、しまいには島から連れ帰ってしまうところだ。しかも、周りの大人たちもそれを許容しているところだ。映画のキャラクターは必ずしも倫理的に正しい必要はないが、ここに関してはシリーズの軸からブレてしまう行為であり、やはり良くないと言わざるを得ない。ドロレスが赤道付近外で生き残れないことをイザベラが見込んでいたなら恐ろしいが。

まとめ

 賛否両論の本作であるが、個人的には支持したい。面白かったのは前提として、意義のある試みが感じられたのが良かった。失われた「生きた恐竜」≒映画への関心を再びスクリーンに蘇らせようとしていること。また、マイケル・クライトンが課したテーマに対し、シリーズで初めて人間的な方法によって回答していることである。

 

『この夏の星を見る』感想〜斥力と引力〜(ネタバレあり)

 前評判が良かったこともあり、『この夏の星を見る』を観た。確かに良かった。もっとも、群像劇としての交通整理は十分とは言えず、途中は中弛みを感じた。その意味で、脚本はもっと上手く出来たはずである。ただ、その不満点を補うだけの魅力も感じた。特に、コロナ禍における「孤立」に対する反作用を、天体というはるか彼方の存在を観測することで描いた点が素晴らしかった。今回はこの点について書いていきたい。

 本作では、コロナパンデミックの影響で、人々は互いに”リアル”な交流が叶わない状況にある。特に中高生にとっては、そのような「孤立」は受け入れ難く、茨城、東京、長崎という物理的にも隔離された地域に住む若者たちのフラストレーションが描かれる。そんななか、彼らを繋ぎとめるイベントがオンラインスターキャッチコンテストである。そもそも、このコンテストは茨城県立土浦三高の科学部から始まった実在のコンテストであり、土浦三高は劇中の砂浦三高のモデルである。活動報告を読むと、劇中に登場する、飯塚の姉が車いすユーザーであることの意味も考えさせられる。

database.nakatani-foundation.jp

 劇中でのコンテストの描き方は、例えばルールが明瞭に描かれないことや大会に向けた練習の描写が不足していることなど、完璧なものではないとは思う。

 スターキャッチコンテストでは、自作の天体望遠鏡を用いて、指定された天体を素早く”キャッチ”する必要がある。本作では、彼らが望遠鏡を作製する様子や、その望遠鏡で天体を観測する際のテクニカルな動作が描かれる。

 クロード・ベルナールは、望遠鏡を用いた天体観測について、以下のように考えた。

ベルナールの見解によると、天文学は距離を置いた観測にならざるをえないので、実験段階に進むことはできなかった。なぜなら、望遠鏡によって眼に知覚可能なものを増大させることはできたが、望遠鏡が可視化した遠い星の運動方向をコントロールできなかったからだ。天「体」にはたらきかけることは不可能だったが、天文台の管理者たちは、所属する観測者たちの身体へとうまくはたらきかけ、身体的な感覚による観測の主観的要素を最小限にした。実験の場は、遠くにある天体から観察者の身体へと移行したのだった。

リサ・カートライト『X線と映画──医療映画の視覚文化史』望月由紀訳、長谷正人監訳、青弓社、2021年、67頁

つまり、天体は遠すぎるので観測者が直接コントロールできない(例えば顕微鏡だったら対象に触れて操作できる)。その代わり、観測者の身体が規律・訓練される(測定方法の標準化など)ということである。そして、そうした身体の規律化は、フーコー的には、社会に対して個人が自らを律し、従順になっていく過程といえる。

 コロナ禍の日本では、例えば「自粛警察」という言葉が流行ったように、相互監視社会の傾向が強まった。劇中でも、長崎-五島に住む円華は、パンデミックが起因となり、実家が営む店が心無い罵倒を受けたり、親友小春からも引き剥がされてしまう。そうした相互監視社会の中で生まれるディスコミュニケーションによって、人々の孤立化はどんどん進んでいく。

 本作におけるエモーションの高まりは、そうした「斥力」に対する反発としての「引力」が、身体を規律化するはずの「観測」という運動によってなされていく瞬間に宿っている。

 望遠鏡という観察機器によって天体という触れられない存在に肉薄し、遠く離れた場所の者たちが繋がり合っていく。遥か彼方の天体が観測によって近づくのは、パンデミックで隔絶された津々浦々に住む人々が観測を通じてつながっていくのと相似形になっているのである。そしてそれは、「孤立」へと向かう身体が、天体観測=規律的行為を通して、むしろ「他者とのつながり」へと開かれていく反転を感じさせる。その様子を、希望に溢れつつも不安定な中高生たちに重ね合わせることでエモーショナルに描いている。

 亜紗が、憧れであった宇宙飛行士が乗るISSを望遠鏡で捉えようとする。徐々にピントを合わせていき、雲から抜け出した宇宙船に真に迫り、それを人々と共有した瞬間、彼女は失われつつあった夢への希求を取り戻しながら、断絶を乗り越え、「何ならできるか?」を明らかにしたのだ。