otaku8’s diary

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『ジョーカー』 レビュー(ネタバレあり)

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あらすじ

「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。

ジョーカー : 作品情報 - 映画.com

 

 

レビュー

 

『ジョーカー』は最高に愛おしいジョークのような映画

 

 『ジョーカー』は現在展開されている『ジャスティスリーグ』などのDCEU作品群とは独立して作られた単独作。『ダークナイト』など過去のバットマン映画にも繋がってはいません。ジョーカーはシーザー・ロメロ、ジャック・ニコルソン、マーク・ハミル(個人的ベストジョーカー)、ヒース・レジャー、キャメロン・モナハンなど過去に様々な俳優によって演じられてきました。まず、この多様性がジョーカーの魅力とも言えるでしょう。ジェームズ・ボンドのように俳優は違ってもキャラは同じ〜ではなくそれぞれのジョーカーは全く異なる人物です。そして作品によってキャラが変わるだけでなく、ジョーカーという人物の中でもキャラが定まりません。今回の映画ではジョーカーのオリジンが描かれますが、ジョーカー自身もどのオリジンが正しいのかは分からないそうです。そして『ジョーカー』はそんな彼の"主観"で語られる物語です。

・ストーリー

 前評判では「衝撃的な映画」と言われていましたが、アーサーが段々と堕ちていく過程は淡々と描かれていてとてもシンプル。予想以上に直球な描き方。もちろんアメコミ映画でここまでやった作品は今までになかったのでその意味では衝撃と言えるかもしれません。好きなのは終盤の展開。自分はこの映画はアーサーという個人の物語を通して、多様性まで含めた"ジョーカー"というキャラクター(概念に近い)を描き切った作品だと感じました。なので監督はジョーカーを使って『タクシードライバー』のような映画を作りたかったと語っていましたが、個人的にはちゃんとジョーカー映画になっていたと思います。「こういう映画だ」と決め付けず、観客によって様々な解釈が出来るのはこの映画の良いところ(それもまさしくジョーカーらしくて、これだけでもう好き)。詳しくは後で。

・俳優

 まずはホアキン ・フェニックス。20kg近く落とし、肋骨が浮き出たアーサーのビジュアルが強烈なインパクト。また、笑いたくないのに笑ってしまう、こんなにも悲壮感を伴う笑い方を見たことがありません。アカデミー主演男優賞に少なくともノミネートはされると思います(まあアカデミーは仲間内の投票なのでどうなるか分かりませんが)。ジョーカーのビジュアルは今までよりも道化師という感じが強くなっていて、映画の内容ともマッチしていて良かったんじゃないでしょうか。

 TVショーの司会者マーレイ・フランクリン役でロバート・デ・ニーロが出ていますが彼の抑えた演技も素晴らしく、特にジョーカーと対峙する場面では二人の演技合戦で非常に迫力がありました。緊張感を高めてくる音楽も相まって、まさに圧倒されるといった感じで、『キング・オブ・コメディ』オマージュかつ『ダークナイト・リターンズ』オマージュでもあるという意味でも大好きな場面です。

・その他

 この映画のストーリーについては意見が分かれるところがあると思いますが、「映画としてのルック」が素晴らしいことについては多くの人が認めるでしょう。ロケに拘った映像が美しく、またゴッサムの腐敗した雰囲気が実感として伝わってきました。音楽は『博士と彼女のセオリー』のヨハン・ヨハンソンの弟子のヒドゥル・グドナドッティルという方でチェロを使った重厚な音楽が素晴らしかったです。また、胸の花から液体が出るところや『ダークナイトリターンズ』ネタなど細かいDC要素も楽しめました。

・残念だった点

 もう少しぶっ飛んだ内容を観たかったとは感じます(ただし、このある意味堅実な作りでアーサーの苦労を淡々と描いたからこそ危険な映画なんだろうと思います)。展開はある程度予測出来てしまいました。また、ここは同時に好きな点でもありますがスコセッシ作品からの引用があからさまなのは少し気になりました。

 

考察

 まず、この映画は観客によって様々な解釈が出来るようになっています。全て妄想という人もいれば、政治的な意図を感じる人もいるでしょう。なのでこれから言うことはあくまで自分の妄想です。
 アーサーは自分の意思に反して笑ってしまうという障害を持っています。時に彼は口を押さえ、自分の中から出てこようとする"ジョーカー"を抑えつけ、周りと同じ"普通"の人であろうとする。彼の笑うタイミングは人と"ズレ"ている。舞台は腐敗したゴッサムシティ。人々の社会に対する不満は爆発寸前。特に富裕層を始めとした"上"の社会と貧困層を始めとする"下"の社会は分断されてしまっています。ここにも社会に"ズレ"が生じている。この"ズレ"の正体こそがアーサーの"笑い"だと感じました。そして彼の"笑い"が具現化したものが"ジョーカー"。薬が切れ、人を殺し、自らの出自を知り、彼は自らの"ジョーカー"を抑えようとしなくなる。もう自分を偽る必要はない。同僚を殺し(ここで目撃者の小人症の人をとても"主観"的な理由で殺さなかったのが予測不能なジョーカーらしくて最高)、『ロックン・ロール・パート2』(この曲の使用に関しては賛否あるようですが)に乗せて軽快に階段を降りていく様子はまさに爽快。映画の大半を占める"アーサー苦労物語"自体が彼にとっての"ズレ"であり、壮大な前フリだった。ここで彼自身の中にある"ズレ"が無くなったことで彼は生まれ変わる。全ては喜劇だ。
 マーレイのTVショーに出演したジョーカー。三人の社員を殺したのは自分だと告げ、善悪の基準なんて"主観"だと主張する(「音痴だから殺した」っていうのは最高にジョーカーらしくて好きです)。対してマーレイは「殺人の言い訳だ。」とジョーカーを抑えつける。マーレイの言い分は至極真っ当。いわゆる"正論"です。しかしジョーカーは納得しない。そこには"ズレ"があるから。それはマーレイだけでなく社会との"ズレ"でもある。マーレイの"主観"では自分がまともだと思い込んでいる。でもジョーカーの"主観"では?マーレイはよく知らないアーサーをいじり、馬鹿にした(私たちが普段観ているバラエティ番組についても考えさせられるものがあります)。マーレイ自身"誰か"を傷つけていたとは気づいていなかったでしょう。そしてそれは自分たち観客にとっても同じことが言えます。ここでハッとしました。マーレイの"正論"に私たちは賛同しますが、同時に自分の中にある"ズレ"も認識したのです。ジョーカーを通して観客自身の"ズレ"を浮き上がらせてくる、そういうメタ的な要素があるのもこの映画の興味深いところだと思います。
 
 マーレイを殺し連行されるジョーカー。自分の中の"ズレ"を克服した彼は夢だった"コメディアン"となった。そして外の世界の混沌はその彼による喜劇。パトカーの窓からゴッサムが燃えているのを見て、悪魔のような笑顔を浮かべる。それはもうアーサーの引きつり笑いではない。「お前のせいだ」と警官に言われると、ジョーカーは「知ってる」と即答する。彼は世界に混沌をもたらし、世界が燃えるのを見て笑う(ジョーカーっぽくないですか?)。
その後、彼は群衆に囲まれ自らの血で顔にメイクと一致させるように笑顔を描く。群衆は彼をシンボルかのように祝福しますが、彼自身にとっては群衆はあくまで自分の喜劇の観客でしかないと思います。母の「どんな時も笑顔で人を楽しませなさい」という教えを世界が燃えることで遂に達成出来たわけですね。
 時を同じくして、アーサーに触発された暴動参加者の一人がブルース・ウェインの両親を殺す場面(ちゃんとネックレスの真珠が飛び散っている!)が登場します。トーマス・ウェインは慈善活動に積極的な富裕層で"上"にいる人物。"下"の人々を救おうとしてきたトーマスが皮肉にも彼ら自身に殺される。そういえば今作ではトーマスやアルフレッドなどお馴染みのキャラが登場しますがこれまでのイメージとは違い、アーサーに強く当たる彼らはとても悪そうに見える。しかし突然ブルースの前に現れ、彼の口に手を入れるようなアーサーはどう見ても不審者であり彼らの行動は至ってまとも。では何故彼らが悪人に見えるのか?それはこの映画がアーサーの主観で語られているから。余談ですが『ダークナイト三部作』が"上"から見たゴッサムだとすれば今作は"下"から見たゴッサムだと思います。『バットマンビギンズ』でのトーマス・ウェインの死の皮肉、『ダークナイト』でハービー・デントは誰にとっての"光の騎士"だったのか?、『ダークナイトライジング』での警官vsベイン軍などなど比べてみると面白いと思います。
 ラスト、病院の中で彼は言います。
「良いジョークを思いついたんだ。君には理解できないだろうけど。」
そこに挿入される両親の遺体の傍らに立つブルースの映像。
彼の言うジョークとは何か?
周りとの"ズレ"を抱えて生きてきたアーサーですが、彼がキッカケでブルースの両親は死んだ。ご存知の通りブルース・ウェインは後にバットマンとなる人物。バットマンとジョーカーは単なる敵対関係を超えて、お互いがお互いを必要とする関係にあると思っています。それはお互いが似た者同士であり良くも悪くも最高の理解者だからでしょう。最低の街ゴッサムで幼少期から人生を狂わされジョーカーになったアーサーとそのアーサーにより(間接的ではあるが)両親を殺され人生を狂わされたバットマンになるブルース。この腐ったゴッサムという最低な社会でお互いの"ズレ"を埋めてくれるであろう最高の"パートナー"を生み出してしまったという皮肉なジョーク(バートン版『バットマン』の二人の関係性を拡張したようにも見える)。長きにわたり描かれてきたバットマンとジョーカーの物語が濃厚な形で集約されていると言えます。もっと広く言えば、自分の人生を惨めで悲惨なものにした社会の中で皮肉にも自分が輝ける居場所を見つけてしまった(というより、こんな社会だからこそ見つけることが出来てしまった)というジョーク。もちろんこの世界でバットマンは出てこないかもしれません。バットマンやヴィランたちは全てアーサーの妄想によるものなのかもしれません。でも何が妄想かというのはどうでも良いと思います。結果的にこの『ジョーカー』という映画自体がジョークになっているところが「ああ、まさにジョーカーの映画だったなぁ」と思わせてくれます。
 
 最後はアーサーが追いかけっこしているところを引きで見せて映画は終わります。「人生は近くで見れば悲劇だが遠くから見れば喜劇だ」。今まで至近距離でアーサーの悲劇を描いてきましたが、最後のショットはそれが実はに喜劇であったことを表していると感じました。"The  End"の締めからの"Send in the Clowns"が流れて自分はこの映画がとても愛おしくなりました。アーサーに共感はしていません。ただ彼の辛い人生までも、この映画全てがジョークだと締め括っているように感じ不思議と後味は良かったです。
 
 ちなみに改めて観直すと色々不自然な場面があるので全て妄想だったという可能性は充分あると思います。またアーサーがポンコツなように見せて全て計算づくだという可能性もあり得ます。いずれにせよ、ジョーカー(アーサー)は信用できる語り手ではありません。
 
まとめ
 『ジョーカー』は一見コミック映画ではないように思えるが、正真正銘の"DCのジョーカー映画"であると同時に観客自身の"ズレ"を浮き彫りにしてしまう映画。