アンドレア・アーノルドは「居場所」について、アプローチを変えながら描いてきた。イギリス郊外をダルデンヌ兄弟みたく描いたかと思えば、同じようなテーマで『嵐が丘』でやってみたり雑誌販売をする若者集団を主体にロードムービーをしたり、ディストピアとして写実された搾乳工場に生きる牛達を通して描いた。
一連の作品のなかで度々共通するのは、「居場所」についての物語を「生命」と「浮遊」、そして「ダンス」というモチーフで象徴させてきたことだ。『BIRD』の話に移る前に、アーノルドの初期作『フィッシュタンク』を例にとって紹介する。
本作はイギリスの低所得帯に属する少女ミア(ケイティ・ジャーヴィス)が貧窮な環境の中でダンサーを目指す様子が描かれる。本作は、その環境=フィッシュタンク(水槽)の中で彼女が居場所を求めてもがく物語だといえる。それを象徴するように彼女は鎖に繋がれた白馬を何度も逃がそうとする。このような「生命の解放」という行為は、主人公が自身を他の生命に重ねるように他作品でも繰り返し描かれる(そもそも、作品名が動物由来であることが多い)。そして、束縛からの自由を希求するように、カメラは空高く「浮遊」していくバルーンを追う。この「浮遊」もアーノルド作品に頻出のモチーフだといえる。また、ミアは自らが置かれた環境に対抗するかのように粗削りなダンスを踊り続ける。つまり、彼女にとって「ダンス」は社会に対する自己表明だとも読み取れる。そのように考えれば、最終盤においてミアがどこで踊らず、どこで踊ったのかは重要な視点となるだろう。
『BIRD』は上記3つのモチーフを用いた集大成的作品ながら、それらによって過去作から一歩踏み出そうとした意欲作である。まず本作のタイトルである「BIRD」=鳥は「浮遊する生命」であり、それが貧困層に属する主人公ベイリー(ニキヤ・アダムス)に重ねられることは過去作からして明らかである(ポスターで主人公は水面に「浮遊」する)が、本作が特異的なのは、「BIRD」が「バード」という名の人物として具現化されることだ。バードはフランツ・ロゴフスキによって見事に演じられている。ロゴフスキは元々ダンサーであり、それを活かした身体表現が素晴らしいわけであるが、アンドレア・アーノルド作品としてはそれ自体がモチーフとして、社会への自己表明として描かれるのである。また、本作はバードという存在をもって、過去作から踏襲されてきたリアリズムを遂に乗り越え始める。その描き方に歪さは感じつつも、「これは映画だから成し得ることだ」と言わんばかりの大胆さを評価したい。
また、もうひとつのモチーフである「ダンス」もしっかりと登場する。まずは主人公の父親(バリー・キヨガン)が踊るシーン。ここもやはり彼の自己表明の場となっている。終盤のダンスシーンは、『アメリカン・ハニー』で主人公スター(サッシャ・レイン)が育て子を預けに行く場面と対象的である。スターは自分の子供ではない子供達の世話を押し付けられており、夫からは性的ハラスメントを受けている。自分の「居場所」を求めるスターは、子供達をその実母に託し、旅に出ようとするのだ。しかし、彼女はカントリーダンスに興じており、スターとまともに話し合おうとしない。カントリーダンスは人々が音楽に合わせて、動きを揃えて踊るというものだ。ここで、「ダンス」は主人公/子供達の実母という「居場所」の違う者達を断絶する運動として機能する。一方、『BIRD』では形態としては上記カントリーダンスと似た「ダンス」であるが、それら断絶ではなく、「迷える鳥達」を繋ぎ止める運動として描写される。そしてその運動は、より大きな世界への自己表明となっているのである。
他に特筆すべき本作での新しい試みとしては、スマホの使い方がある。主人公はことあるごとにスマホで動画を撮るのだが、その画面は縦長であり狭い。それがまるで、過去作におけるスタンダードサイズの画角と同じような効果をもたらしており、「彼女が置かれた居場所から見る世界」を表しているようだ。
アンドレア・アーノルドの集大成的作品ながら新しいアプローチに挑戦した本作には歪さを感じつつ、その大胆さは評価したい。加えて俳優陣は総じて素晴らしく(特に素人から抜擢されたアダムスはアーノルド映画らしい逸材)、印象に残る映画であった。