さかなクンをのん氏(←素晴らしかった)が演じるということで気にはなっていた映画だが、予告編以上の情報は殆ど入れずに観た。予告編の印象だと、所謂「いい話」なのかなと思っていた。実際観てみると、確かにいい話ではあるのだが、予想以上に「奇妙」な作品であった。ここで「奇妙」とカッコ付きにしたが、実際のところ本作を奇妙だと形容するのは不適切だ。のん演じるみー坊は「普通って何?」と問いかける。日常生活では「普通」と軽々しく口にしがちだが、実はとても残酷な言葉だと思っている。「普通」は自分の中の「常識」を他人に押し付け、そこから外れるものを奇妙だと考え、排除してしまう。この映画では、好きなことをひたすら突き詰めるみー坊がそんな世界を打破しようとする。先ほどこの映画が「奇妙」だと書いたのは、本作が所謂「いい話」の枠にはとどまらず、かなり特異な作りがなされているということだ。だからこそ、本作は唯一無二の存在感を残している。
本作は単なるさかなクンの自伝ではない。むしろ、虚構の力がかなり強調され、それを持ってさかなクンの核を描いている。みー坊の小学生時代を描いた第一部がまず凄い。何しろ、さかなクン本人がみー坊の前に現れる(さかなクンだと分かっているからいいが、流石にあの登場は怖い。知らない大人についていくなというお父さんは正しいだろう)だけではなく、最後はパトカーで連行されてしまう。さかなクン演じるギョギョおじさんは「お魚博士」になり切れなかった、みー坊の師匠であり、対比される存在として登場し、2人の「自己対話」が描かれる。ここは特に、忠実な自伝でないことが功をなしていた。
第二部では『クローズ』みたいなヤンキーバトルが描かれる。ここの誇張された中学時代が楽しいんだが、何より「人の動かし方」が良かった。周りが縄張り争いに躍起になる中、みー坊はそれにはあまり関心を持たない。みー坊の頭の中にあるのは魚のことだけだ。集団の中でひとり別行動をするみー坊は、はじめは奇妙な存在と見做されるものの、次第に周囲のみー坊に対する見方が変わっていく。彼らは自分の中の物差しで世界を測り、「普通かそうでないか」を判断していたが、魚好きな自分を自己肯定し続けるみー坊によってその物差しが無くなっていく。ラストで魚の群れに埋もれず、輝くハコフグはこのようなみー坊の在り方を示している。集団に馴染んでいく(所謂「普通」になっていく)のではなく、自分はあくまで自分であり、物差しが消えていく。かつてみー坊に対して物差しを持って接していたモモコは、魚に夢中の娘に図鑑を買い与える。みー坊が母から受けた影響がそのまま次世代に引き継がれていく。さかなクンがギョギョおじさんとしてみー坊に対峙することで、さかなクンが自身(≒みー坊)を肯定すること、そしてその自己肯定こそが次世代にとって良い影響を与えるということを示している。みー坊が『ロッキー2』のロッキーのごとく子供たちを引き連れながら疾走する場面は、自分が好きなものに対して全速力であることが子供たちにも良い影響を与えるんだということ、つまり実際のさかなクンの在り方を表しているようだ。
本作が好きなのは、「夢は叶う!」「努力は裏切らない!」といった理想論(そういう心持ちは大事かもだが)に頼っていないところだ。「頑張って理想の存在になれるかどうか」ではなく、「自分の物語がどんな結末に向おうとも」という姿勢と、そのような姿勢を貫くみー坊に対する他者に焦点が当てられていたのが良い。みー坊は周囲の物差しを取り払っていったが、みー坊自身も家族や友人、ペットショップの店主など周囲の人々から良い影響を受けてきた。そうした他者の変化とみー坊の変化が互いに作用し合っていくなかで、いつまでも好きなことを大切にし続けるみー坊(さかなクン)の素晴らしさが再確認されていく、そんな作品だった。