otaku8’s diary

映画のこととか

『悪の法則』と『ノーカントリー』についての雑感 #1

評価の差

 Rotten Tomatoesで『悪の法則』の評価を見たことがあるだろうか?2022年9月28日時点ではこんな感じだ。

https://www.rottentomatoes.com/m/the_counselor_2013

一方、同じコーマック・マッカーシーの作品『血と暴力の国』を原作とした『ノーカントリー』は『悪の法則』と似たような話であるが、評価はこんな感じだ。

https://www.rottentomatoes.com/m/no_country_for_old_men

Rotten Tomatoesに絶対的信頼を置いているわけではないが、にしてもこの評価の差はなんだろうか?といつも思う。

 

※『悪の法則』『ノーカントリー』のネタバレあり

 

死神は見えない

 『悪の法則』といえば賛否両論が激しいことで知られている。否定派の意見でよく見るのが「何が起きているのか分からない」というものだ。確かに何が起きているかよく分からないまま、全体像が見えないまま映画は終わってしまう。ここが本作の素晴らしい点でもある。

 「システム思考」という考え方がある。大雑把に言えば、ありとあらゆる要素が有機的に繋がっており、それらの相互作用によって全体のふるまい(システム)が表出するという考え方だ。ここで重要になってくるのは、その細部だけ見てもシステムの全体像は分からないという点である。『悪の法則』は一見何も起きていないようで、気づいたときには時すでに遅し、実は最初から詰んでいたという話である。つまり、死神を見ることは出来ない。これは『ノーカントリー』との相違の一つである。

シガーとマルキナ

 『ノーカントリー』はハビエル・バルデム演じる殺人者シガーが非常に印象的な作品で、初めからこの男はヤバいと認識させられる。彼はこの世界の「悪」を体現した存在である。ここでいう「悪」とは自分の外側に存在するものである。つまり「自分の内なる悪」のようなものとは違って自分の意思が介入しない無機質な「悪」、自分の在り方に依らないものである。ではそれは何を象徴しているのかといえば、不条理で暴力的な世界だといえる。彼は人間の自由意思を否定し、人々に死をもたらす。シガーはガソリンスタンドの店主に対してコインの裏表を問う。コインは長い年月をかけて運命的にここへ辿り着いた。店主が死ぬかどうかも自由意思によらず、コインの裏表という運命論で決まるのだ。

 『ノーカントリー』でシガーと対峙する役どころで印象的なのは、モスの妻カーラだ。コインの裏表を問うシガーを、彼女は一蹴する。私の生死を決めているのはコインではなく貴方であると。原作と同様、彼女は殺されてしまう(家の外でシガーは靴裏を見る仕草をする)が、死神シガーですらも世界そのものにはなりきれないことも示唆される。カーラの家を出たシガーは交通事故に遭う。相手の車の運転手とは特に因縁はないのだが、たまたま運悪く出会い、ぶつかってしまったのだ(シガーですらも世界そのものにはなりきれないことが示唆されると書いたが、恐らく死んでしまった相手運転手目線に立てば、運悪く死神の車に突っ込んだ為に死んだとも解釈できる)。

 一方で、『悪の法則』では「悪」=世界=システム自体となる。シガーという個人に死神の役割を託すのではなく、この世界自体が個人の力では変えようもない運命論的性質を持っているとしている。同時に、その世界を形作っているのも個人個人なのだ。窮地に追い込まれたマイケル・ファスベンダー演じる弁護士が、何とか状況を改善したいとルーベン・ブラデス演じる男ヘフェに相談する。普段私たちは「何とかなる精神」を持って生きている。実際それは効果的(そう思わないとやっていられない)だが、ヘフェは無情にも弁護士を一蹴する。この映画は「何ともならない精神」の作品だ。人の選択が世界を作り、一度選択をしたらもう前の世界には戻れないのだと告げる。個々の選択によって創られた世界=システムは止まることなく動き続け、我々は否応なくその中に巻き込まれている。

 このように『悪の法則』は世界に対する人間の在り方を描いていて、『ノーカントリー』でのシガーとの追跡/逃走劇ような分かりやすい構図がないために、娯楽性が感じられないのだろう。しかもポスターを見ると超豪華キャストによるアクションサスペンスみたいな雰囲気を感じてしまうから尚更だ。実際には、この残酷な世界で彼らがなすすべなく死んでいく様子が描かれるだけなのだから。その中で唯一アイコン的存在と言えるのがキャメロン ・ディアス演じるマルキナである。彼女は本作での事件の裏を引いており、一人勝ちする人物でもある。一見すると『ノーカントリー』のシガーと同じ立ち位置にも思われるが、シガーが「純粋悪」として暴力的なシステムの役割自体を担っていたのに対してマルキナはあくまでこのシステムの中で生きる一人物に過ぎない。『悪の法則』ではマルキナはチーターを飼い、狩りを好む、非常に野生的な人物として描かれている。間接的とはいえ、彼女が人を追い詰め殺す場面はまさに「狩り」のようだ。

 「狩る/狩られる」関係は他のマッカーシー映画にもよく登場する。『ノーカントリー』ではジョシュ・ブローリン演じるモスがガゼルを狩るシーンでそのテーマが暗示されている。ライフルを覗くモスに対して場面を主観/客観交互に切り替えることで、この「狩る/狩られる」関係性が逆転し得ることを示唆していた。『ザ・ロード』の世界では文字通り人間狩りが行われており、人々は「狩る側/狩られる側」の境界線に立たされる。それは人間としての尊厳を保てるか否かの境目でもあった。

 マルキナは欲望に忠実であり,狩り=殺しの中に美しさを見出している。この暴力への渇望みたいなものは『ノーカントリー』にはなかった。シガーは災害的な暴力装置であり、そこに彼個人の欲望は見出されない。そもそもリドリー・スコット映画では人を動物的に扱い、それらは利己的かつ野生的に振る舞っているとすることが多い。マルキナはそのような動物的人間であり、彼女は一旦はこの生存競争に勝利したといえるだろう。

ウェルズとウェストリー

 『ノーカントリー』と『悪の法則』には似たような人物が登場する。ウディ・ハレルソン演じるウェルズとブラッド・ピット演じるウェストリーだ。共に白いビジュアルイメージで、カウボーイハットを被っている。この二人は自分は世界を理解していると思っている点で共通している。主人公に対して「世界との向き合い方はこうだ」と講釈を垂れるが、実は本人も世界を理解しておらず、呆気なく殺されてしまう役どころだ。こう書くと彼らを馬鹿にしているように感じるかもしれないが、大多数の人間はこんなものだ。世界の上辺を理解した気になって、それを他人に偉そうに注意する。まさに私のことである。

 

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